誤解されがちなのですが、歴史修正主義的な主張は「結論が通説と違うから」とか「日本軍を美化しているから」といった理由で「歴史修正主義的だ」と判断されるわけではありません。神ならぬ私たちは歴史記述それ自体だけをとりあげて「これは史実に合致している」とか「史実に反している」と判断することはできないからです。肝心なのはむしろある歴史記述(と主張されているもの)がどのような方法で導き出されているか、です。史料の取捨選択やその解釈、史料からの推論などがまったく妥当性を欠いている場合に「偽史」とか「歴史修正主義」という判断が下されるわけです。「おかしな結論」が出てくるのは「おかしな方法」が用いられているからなのです。一定の合理性を備えた方法によって導き出された歴史記述同士の対立は学術的な議論の対象になりますが、歴史修正主義は「疑似科学」の一種であって「歴史学の内部における、通説への挑戦」ではありません。
朴裕河氏の『帝国の慰安婦』(朝日新聞出版、2014年)を徹底的に批判した鄭栄桓氏の『忘却のための「和解」』がまず焦点を当てているのも、『帝国の慰安婦』で用いられている「方法」です(『忘却のための「和解」』、195ページ)。逆にいえば、歴史修正主義批判の妥当性もまた、「方法」への批判の方法によって判断されることになります。
私がみるところ、『忘却のための「和解」』は『帝国の慰安婦』に歴史修正主義的という評価を下すに足るだけの十分な理由があることを明らかにしています。その徹底した批判ぶりについてはぜひ『忘却のための「和解」』を読んで確かめていただきたいと思いますが、ここでは私自身が『「慰安婦」問題の現在』(三一書房、2016年)所収の拙稿(『季刊 戦争責任研究』第85号に掲載されたものを改題のうえ再録)でとりあげた事例を使って、『帝国の慰安婦』の「方法」がはらむ問題点を例証してみましょう。
朴裕河氏は『帝国の慰安婦』104ページで「慰安婦問題を否定する人たちが、民間人が勝手に営業したと主張するのは、このような記憶が残っているからだろう」と主張しています。ここで「このような記憶」とされているのは、千田夏光氏の『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』(講談社文庫版のタイトルは『従軍慰安婦』)において元日本兵が「びっくりしたのは済南に入城した二日後に、早くも酌婦が入って来たことでした」「部隊に営業の許可をとることもなかったのでしょう」「形としては、民間人が勝手にやってきて勝手に営業している、ということだったのでしょう」という証言をその直前で引用していることを踏まえています。
しかしこの主張には、ざっとみても3つの問題点があります。まず第一に、「民間人が勝手に営業した」という主張が「慰安婦」問題否認論にとって中心的なものだったのは「慰安婦」問題論争史の初期に限られ、吉見義明氏による「発見」以降は「善き関与」論にとって代わられていったという点です。言い換えればいまさら「民間人が勝手に営業した」論でもって「慰安婦問題を否定する人たち」の主張を代表させることは妥当ではない、ということです。
第二に、「民間人が勝手に営業した」という主張が「このような記憶」によるものだという推論の根拠がまったく示されていません。状況から考えて自明であるとか、蓋然性の高い推論であることが読者にも直ちに納得できるからといった理由で、これを正当化できるでしょうか? 私たちはいまや、当時の与党自民党には中曽根康弘のように自ら軍慰安所を設置しておきながらだんまりを決め込んでいた人間がいることを知っています。防衛庁防衛研究所の資料専門官が吉見教授の発見した文書の存在を把握していながら、内閣に報告するのをサボタージュしていたこともわかっています(92年1月11日の『朝日新聞』朝刊に永江太郎資料専門官が「こういうたぐいの資料があるという認識はあった」とコメントしています)。そもそも従軍体験者のうち純民営の「慰安所」しか見聞しなかったひとはどれほどいたのか、そして1990年頃までどれくらいのひとが存命だったのか、が大いに疑問です。そうしたひとびとが「民間人が勝手に営業した」という認識の形成をリードしたのだ、というのはとても自明の事柄とは思えません。
そして第三の、もっとも悪質な問題点があります。この元日本兵の証言には続きがあるのです。朴裕河氏が引用した証言と同じページで、この元日本兵は「北部中国に軍の管理する慰安婦と慰安所ができたのは三月か四月ごろではなかったかと思います」と語っているのです。つまりこの元日本兵は「民間人が勝手に営業した」という主張の根拠となるような「記憶」など持っていなかったのです! 純民営の「慰安所」しか知らなかった元日本軍将兵が存在した可能性は否定できませんが、少なくとも千田夏光氏の『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』に依拠して「このような記憶」なるものを語ることはできないはずなのです。朴裕河氏が引用した箇所から段落ひとつ、わずか数行を挟んで記されている「北部中国に軍の管理する慰安婦と慰安所ができたのは三月か四月ごろではなかったかと思います」という一節を見落とすというのは、ミスとしてはお粗末にもほどがあるミスであり、「捏造」の嫌疑をかけられてもしかたがない水準です。
「完璧な人間などいないのだから一つや二つ間違いがあっても当然」という弁護は可能でしょうか? 『「慰安婦」問題の現在』所収の拙稿は『帝国の慰安婦』における『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』の援用のされ方をとりあげたものなのですが、なんとこのきわめて限定的なテーマで検討しただけで論文1本分の文字数に達してしまったのです。鄭栄桓氏の『忘却のための「和解」』ですら、『帝国の慰安婦』の問題点を網羅しているわけではありません。私自身、雑誌、書籍などの刊行物でいまだ言及されていない重大な問題点をほかにいくつも発見しています。
では、このように問題点の多い書籍がなぜ高い評価を与えられてしまったのでしょうか? 『忘却のための「和解」』はこの点についてもきわめて示唆に富む分析を行っていますが、一般的に言えば歴史修正主義が受容されるのは政治的な動機によります。政治的な動機によってきわめて強いバイアスがかかっているために、ふつうならとうてい受けいれられないような強引な「方法」が看過されてしまうわけです。この意味で、私は歴史修正主義を「歴史学を装った政治運動」だと考えています。しかしながら、繰り返し強調しますが、ある歴史記述を「歴史修正主義的だ」と主張する際には、その歴史記述を導く「方法」に重大な問題があることが指摘されているのです。
朴裕河氏の『帝国の慰安婦』(朝日新聞出版、2014年)を徹底的に批判した鄭栄桓氏の『忘却のための「和解」』がまず焦点を当てているのも、『帝国の慰安婦』で用いられている「方法」です(『忘却のための「和解」』、195ページ)。逆にいえば、歴史修正主義批判の妥当性もまた、「方法」への批判の方法によって判断されることになります。
私がみるところ、『忘却のための「和解」』は『帝国の慰安婦』に歴史修正主義的という評価を下すに足るだけの十分な理由があることを明らかにしています。その徹底した批判ぶりについてはぜひ『忘却のための「和解」』を読んで確かめていただきたいと思いますが、ここでは私自身が『「慰安婦」問題の現在』(三一書房、2016年)所収の拙稿(『季刊 戦争責任研究』第85号に掲載されたものを改題のうえ再録)でとりあげた事例を使って、『帝国の慰安婦』の「方法」がはらむ問題点を例証してみましょう。
朴裕河氏は『帝国の慰安婦』104ページで「慰安婦問題を否定する人たちが、民間人が勝手に営業したと主張するのは、このような記憶が残っているからだろう」と主張しています。ここで「このような記憶」とされているのは、千田夏光氏の『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』(講談社文庫版のタイトルは『従軍慰安婦』)において元日本兵が「びっくりしたのは済南に入城した二日後に、早くも酌婦が入って来たことでした」「部隊に営業の許可をとることもなかったのでしょう」「形としては、民間人が勝手にやってきて勝手に営業している、ということだったのでしょう」という証言をその直前で引用していることを踏まえています。
しかしこの主張には、ざっとみても3つの問題点があります。まず第一に、「民間人が勝手に営業した」という主張が「慰安婦」問題否認論にとって中心的なものだったのは「慰安婦」問題論争史の初期に限られ、吉見義明氏による「発見」以降は「善き関与」論にとって代わられていったという点です。言い換えればいまさら「民間人が勝手に営業した」論でもって「慰安婦問題を否定する人たち」の主張を代表させることは妥当ではない、ということです。
第二に、「民間人が勝手に営業した」という主張が「このような記憶」によるものだという推論の根拠がまったく示されていません。状況から考えて自明であるとか、蓋然性の高い推論であることが読者にも直ちに納得できるからといった理由で、これを正当化できるでしょうか? 私たちはいまや、当時の与党自民党には中曽根康弘のように自ら軍慰安所を設置しておきながらだんまりを決め込んでいた人間がいることを知っています。防衛庁防衛研究所の資料専門官が吉見教授の発見した文書の存在を把握していながら、内閣に報告するのをサボタージュしていたこともわかっています(92年1月11日の『朝日新聞』朝刊に永江太郎資料専門官が「こういうたぐいの資料があるという認識はあった」とコメントしています)。そもそも従軍体験者のうち純民営の「慰安所」しか見聞しなかったひとはどれほどいたのか、そして1990年頃までどれくらいのひとが存命だったのか、が大いに疑問です。そうしたひとびとが「民間人が勝手に営業した」という認識の形成をリードしたのだ、というのはとても自明の事柄とは思えません。
そして第三の、もっとも悪質な問題点があります。この元日本兵の証言には続きがあるのです。朴裕河氏が引用した証言と同じページで、この元日本兵は「北部中国に軍の管理する慰安婦と慰安所ができたのは三月か四月ごろではなかったかと思います」と語っているのです。つまりこの元日本兵は「民間人が勝手に営業した」という主張の根拠となるような「記憶」など持っていなかったのです! 純民営の「慰安所」しか知らなかった元日本軍将兵が存在した可能性は否定できませんが、少なくとも千田夏光氏の『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』に依拠して「このような記憶」なるものを語ることはできないはずなのです。朴裕河氏が引用した箇所から段落ひとつ、わずか数行を挟んで記されている「北部中国に軍の管理する慰安婦と慰安所ができたのは三月か四月ごろではなかったかと思います」という一節を見落とすというのは、ミスとしてはお粗末にもほどがあるミスであり、「捏造」の嫌疑をかけられてもしかたがない水準です。
「完璧な人間などいないのだから一つや二つ間違いがあっても当然」という弁護は可能でしょうか? 『「慰安婦」問題の現在』所収の拙稿は『帝国の慰安婦』における『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』の援用のされ方をとりあげたものなのですが、なんとこのきわめて限定的なテーマで検討しただけで論文1本分の文字数に達してしまったのです。鄭栄桓氏の『忘却のための「和解」』ですら、『帝国の慰安婦』の問題点を網羅しているわけではありません。私自身、雑誌、書籍などの刊行物でいまだ言及されていない重大な問題点をほかにいくつも発見しています。
では、このように問題点の多い書籍がなぜ高い評価を与えられてしまったのでしょうか? 『忘却のための「和解」』はこの点についてもきわめて示唆に富む分析を行っていますが、一般的に言えば歴史修正主義が受容されるのは政治的な動機によります。政治的な動機によってきわめて強いバイアスがかかっているために、ふつうならとうてい受けいれられないような強引な「方法」が看過されてしまうわけです。この意味で、私は歴史修正主義を「歴史学を装った政治運動」だと考えています。しかしながら、繰り返し強調しますが、ある歴史記述を「歴史修正主義的だ」と主張する際には、その歴史記述を導く「方法」に重大な問題があることが指摘されているのです。