この記事が書かれた経緯については「kokubo 氏の“反論”について(1)」を参照されたい。ここでは朴裕河氏がFacebookのポストで引用した kokubo 氏の主張をとりあげる。kokubo 氏のポストを直接閲覧できないのは残念であるが、朴裕河氏が自身の責任において『帝国の慰安婦』批判への反論として紹介したものであるから、引用された限りの主張について検討することにする。なお、反論の対象となっているのは当ブログの記事「歴史修正主義は何によってそう認定されるか」である。
問題の記事で私が指摘したのは、「慰安婦問題を否定する人たちが、民間人が勝手に営業したと主張するのは、このような記憶が残っているからだろう」(『帝国の慰安婦』104ページ)と主張する際に、朴裕河氏が元日本軍兵の証言を恣意的につまみ食いしている、ということであった。ここでまず確認しておかねばならないのは、「民間人が勝手に営業した」という主張の源泉となり得る記憶は「民間人が勝手に営業している慰安所を見た」というものではなく、「民間人が勝手に営業している慰安所しか見たことがない」というものでなければならない、ということである。純民営の「慰安所」も軍が設置・運営する「慰安所」も共に知っているという人間が「民間人が勝手に営業した」と主張したとすれば、彼は「記憶が残っているから」そう主張したのではなく、自らの記憶に反してそう主張したことになるからである。問題の証言者はまさにどちらの慰安所も記憶しているのであるから、本来「慰安婦問題を否定する人たちが、民間人が勝手に営業したと主張するのは、このような記憶が残っているからだろう」という主張の根拠としては援用できないはずである。にもかかわらず、読者の目から「北部中国に軍の管理する慰安婦と慰安所ができたのは三月か四月ごろではなかったかと思います」という証言を隠してあたかも「民間人が勝手に営業している慰安所しか見たことがない」という証言者が『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』に登場するかのようにみせていることが問題なのである。 kokubo 氏は「つまりこの元兵士は「民間人が勝手に営業した慰安所」と「軍管理の慰安所」二種類の慰安所の記憶があるということ」としているが、「二種類の慰安所の記憶」では朴裕河氏の主張の根拠足り得ないのである。
このような kokubo 氏の主張を朴裕河氏が肯定的にとりあげたのはまたしても示唆的なことと言わねばならない。『帝国の慰安婦』に対する批判の一つは、同書が元「慰安婦」被害者などの証言を文脈を無視して利用している、ということであった。『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』に実際にあたってみればわかることだが、この兵士は「二種類の慰安所の記憶」をひとまとまりのものとして証言している。取材を受けているのは戦後なのだから、当然といえば当然である。だが kokubo 氏はこの兵士の記憶から「民間人が勝手に営業した慰安所」についての記憶だけをピックアップして利用することを正当化している。「どうしてこの人は「ワンセンテンス」で物事を考えるのだろうか?」という問いは朴裕河氏と kokubo 氏自身にこそ向けられるべきであろう。
問題の記事で私が指摘したのは、「慰安婦問題を否定する人たちが、民間人が勝手に営業したと主張するのは、このような記憶が残っているからだろう」(『帝国の慰安婦』104ページ)と主張する際に、朴裕河氏が元日本軍兵の証言を恣意的につまみ食いしている、ということであった。ここでまず確認しておかねばならないのは、「民間人が勝手に営業した」という主張の源泉となり得る記憶は「民間人が勝手に営業している慰安所を見た」というものではなく、「民間人が勝手に営業している慰安所しか見たことがない」というものでなければならない、ということである。純民営の「慰安所」も軍が設置・運営する「慰安所」も共に知っているという人間が「民間人が勝手に営業した」と主張したとすれば、彼は「記憶が残っているから」そう主張したのではなく、自らの記憶に反してそう主張したことになるからである。問題の証言者はまさにどちらの慰安所も記憶しているのであるから、本来「慰安婦問題を否定する人たちが、民間人が勝手に営業したと主張するのは、このような記憶が残っているからだろう」という主張の根拠としては援用できないはずである。にもかかわらず、読者の目から「北部中国に軍の管理する慰安婦と慰安所ができたのは三月か四月ごろではなかったかと思います」という証言を隠してあたかも「民間人が勝手に営業している慰安所しか見たことがない」という証言者が『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』に登場するかのようにみせていることが問題なのである。 kokubo 氏は「つまりこの元兵士は「民間人が勝手に営業した慰安所」と「軍管理の慰安所」二種類の慰安所の記憶があるということ」としているが、「二種類の慰安所の記憶」では朴裕河氏の主張の根拠足り得ないのである。
このような kokubo 氏の主張を朴裕河氏が肯定的にとりあげたのはまたしても示唆的なことと言わねばならない。『帝国の慰安婦』に対する批判の一つは、同書が元「慰安婦」被害者などの証言を文脈を無視して利用している、ということであった。『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』に実際にあたってみればわかることだが、この兵士は「二種類の慰安所の記憶」をひとまとまりのものとして証言している。取材を受けているのは戦後なのだから、当然といえば当然である。だが kokubo 氏はこの兵士の記憶から「民間人が勝手に営業した慰安所」についての記憶だけをピックアップして利用することを正当化している。「どうしてこの人は「ワンセンテンス」で物事を考えるのだろうか?」という問いは朴裕河氏と kokubo 氏自身にこそ向けられるべきであろう。