2016年5月3日火曜日

kokubo 氏の“反論”について(2)

 この記事が書かれた経緯については「kokubo 氏の“反論”について(1)」を参照されたい。ここでは朴裕河氏がFacebookのポストで引用した kokubo 氏の主張をとりあげる。kokubo 氏のポストを直接閲覧できないのは残念であるが、朴裕河氏が自身の責任において『帝国の慰安婦』批判への反論として紹介したものであるから、引用された限りの主張について検討することにする。なお、反論の対象となっているのは当ブログの記事「歴史修正主義は何によってそう認定されるか」である。

 問題の記事で私が指摘したのは、「慰安婦問題を否定する人たちが、民間人が勝手に営業したと主張するのは、このような記憶が残っているからだろう」(『帝国の慰安婦』104ページ)と主張する際に、朴裕河氏が元日本軍兵の証言を恣意的につまみ食いしている、ということであった。ここでまず確認しておかねばならないのは、「民間人が勝手に営業した」という主張の源泉となり得る記憶は「民間人が勝手に営業している慰安所を見た」というものではなく、「民間人が勝手に営業している慰安所しか見たことがない」というものでなければならない、ということである。純民営の「慰安所」も軍が設置・運営する「慰安所」も共に知っているという人間が「民間人が勝手に営業した」と主張したとすれば、彼は「記憶が残っているから」そう主張したのではなく、自らの記憶に反してそう主張したことになるからである。問題の証言者はまさにどちらの慰安所も記憶しているのであるから、本来「慰安婦問題を否定する人たちが、民間人が勝手に営業したと主張するのは、このような記憶が残っているからだろう」という主張の根拠としては援用できないはずである。にもかかわらず、読者の目から「北部中国に軍の管理する慰安婦と慰安所ができたのは三月か四月ごろではなかったかと思います」という証言を隠してあたかも「民間人が勝手に営業している慰安所しか見たことがない」という証言者が『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』に登場するかのようにみせていることが問題なのである。 kokubo 氏は「つまりこの元兵士は「民間人が勝手に営業した慰安所」と「軍管理の慰安所」二種類の慰安所の記憶があるということ」としているが、「二種類の慰安所の記憶」では朴裕河氏の主張の根拠足り得ないのである。

 このような kokubo 氏の主張を朴裕河氏が肯定的にとりあげたのはまたしても示唆的なことと言わねばならない。『帝国の慰安婦』に対する批判の一つは、同書が元「慰安婦」被害者などの証言を文脈を無視して利用している、ということであった。『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』に実際にあたってみればわかることだが、この兵士は「二種類の慰安所の記憶」をひとまとまりのものとして証言している。取材を受けているのは戦後なのだから、当然といえば当然である。だが kokubo 氏はこの兵士の記憶から「民間人が勝手に営業した慰安所」についての記憶だけをピックアップして利用することを正当化している。「どうしてこの人は「ワンセンテンス」で物事を考えるのだろうか?」という問いは朴裕河氏と kokubo 氏自身にこそ向けられるべきであろう。



2016年5月2日月曜日

kokubo 氏の“反論”について(1)

 去る4月22日、朴裕河氏はツイッター及びFacebookにおいて、kokubo 氏が私に対して行った”反論”(後にみるように反論の体をなしていないので引用符でくくってある)を紹介した。朴裕河氏からの直接の反論ではないが、彼女は kokubo 氏の書いたものについて「その通りだと思った」とのことである。  朴裕河氏が紹介した kokubo 氏の”反論”は3つある。2つは氏が自身のブログで公表したものであり、残る1つはFacebookのポスト(「友達」限定公開なのか、私は閲覧できない)を朴裕河氏が自身のポストで転載したものである。ここではまず、2つのブログ記事について見てみることにしよう。

・「河を渡っている慰安婦の写真は「朝鮮人慰安婦」である〜能川元一氏に反論する」(2015年12月29日)
・「この能川元一氏の『帝国の慰安婦』批判は最初で最大の間違いである。〜能川元一氏に反論する」(2016年1月26日)

いずれも反論の体をなしていない記事なのでこれまで無視してきたのだが、朴裕河氏が肯定的に紹介したとなればまた話は別である。朴裕河氏はこの論点について、もはや悪意のないミスであったことを主張できなくなったからである。
 なお“批判”の対象となっているのは私が『季刊 戦争責任研究』の第85号(以下『戦争責任研究』)に寄稿したもの(その後、三一書房刊の『「慰安婦」問題の現在』に改題のうえ再録された)であるが、関係する論点については当ブログの記事「「和服・日本髪の朝鮮人慰安婦の写真」とは?/『帝国の慰安婦』私的コメント(1)」でも同趣旨の指摘をしておいた。ここで問題となる2枚の写真のうち、千田夏光氏が「兵隊とともに行軍する朝鮮人らしい女性。頭の上にトランクをのせている姿は朝鮮女性がよくやるポーズである」と記述している写真を以下「渡江写真」、「占領直後とおぼしい風景の中に和服姿で乗り込む女性。中国人から蔑みの目で見られている日本髪の女性」と記述している写真を「和服写真」と呼ぶことにしたい。渡江写真は毎日新聞社刊の『每日グラフ』別冊「日本の戦歴」(1965年)の21ページ、写真集『日本の戦歴』(1967年)の117ページに、和服写真は同じくそれぞれ128-9ページ、114-5ページに掲載されたものである。


渡江写真


和服写真

 さてまず「河を渡っている慰安婦の写真は「朝鮮人慰安婦」である」についてであるが、kokubo 氏は私の主張のポイントを完全に取り違えている。問題は渡江写真の女性が朝鮮人「慰安婦」であるか否かではない。『帝国の慰安婦』が挙げた資料から女性たちを「朝鮮人」であると断定してよいか否か、である。この写真(渡江写真と和服写真の混同)をとりあげた理由を私は「『帝国の慰安婦』には、朴氏の主張に合致する場面では千田氏の記述を無批判に採用する一方、朴氏の主張に反する場合には千田氏の強い主張ですら具体的な根拠なしに無視、ないし否定する傾向」がみられるからだ、と述べておいた(『戦争責任研究』4ページ、『「慰安婦」問題の現在』114-115ページ)。千田氏が「朝鮮人らしい女性」(下線は引用者)としか記していないのに、『帝国の慰安婦』では「朝鮮人慰安婦」だと断定されてしまっている点をこそ、私は問題にしていたのだ。したがって、別の資料に依拠して渡江写真の女性が朝鮮人であることを論証したところで、拙稿への批判とはならないのである。
 そのうえ、渡江写真の女性が朝鮮人であるという kokubo 氏の“論証”もお粗末極まりない。氏は1992年に部落問題研究所から刊行された千田夏光氏と馬場鉄男氏の対談本、『従軍慰安婦 その支配と差別の構図』から「この写真を調べていると、たまたま腰までスカートをめくった二人の女性が、頭に荷物を乗せて川を渡っている写真があった。これ、何だと聞いたところ、これが『朝鮮ピー』(朝鮮人慰安婦)だというわけです。」という千田氏の発言を引用している(17ページ)。読者の方はすぐ気づかれたことだろうが、千田氏はいったい誰が「朝鮮ピーだ」と“教えて”くれたのかを明らかにしていない。『従軍慰安婦 その支配と差別の構図』全体を通してもやはり「朝鮮ピー」だと言ったのが誰であるかは明らかにされていない。つまり kokubo 氏が引用した千田氏の発言は「正体不明の誰かが、写真の女性たちを朝鮮人だと思った」ことの根拠にはなりえても、女性たちが実際に朝鮮人であるとする十分な根拠にはなりえないのである。
 この正体不明氏――おそらく千田氏より年長の毎日新聞関係者であろう、という程度の推測はできる――が、問題の写真を撮影したカメラマン本人や共に従軍していた記者など、女性たちの民族性を直接知り得た人物でないことはほぼ確実である。もしそのような情報源に千田氏が接触していたのなら、『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』の記述も「日本の戦歴」のキャプションも違ったものになりえたはずだからである。当時はまだ軍事動員された経験を持つ男性が多数職場にいた時代である。また、典型的な「慰安所」経営の実態として「日本人慰安婦は将校向け、朝鮮人慰安婦は兵士向け」という差別的な“分業”があったことについては複数の証言がある。とすれば、「慰安婦といえば朝鮮人」という認識をもった戦場体験者がいても不思議ではない。そのような人物が戦場の若い女性の写真を見て「朝鮮人慰安婦だ」と考えた……というのは合理的かつ蓋然性のある推測だろう。仮にこの推測を採用しないにしても、結局正体不明氏がなぜ「朝鮮ピー」だと判断したのかが不明である以上、上記引用から女性たちが実際に朝鮮人であったと結論することはできない。
 このような kokubo 氏の議論について朴裕河氏が「その通りだ」と思った、というのは示唆的であると言えよう。「朴氏の主張に合致する場面では千田氏の記述を無批判に採用する(……)傾向」についての私の指摘を改めて裏づけることになっているからだ。
 また kokubo 氏は西野瑠美子氏の『従軍慰安婦 元兵士たちの証言』(明石書店、1992年、なお同書では「西野留美子」名義)にみられる記述も渡江写真の女性たちが「朝鮮人慰安婦」だとする根拠としている。しかしながら、西野氏が依拠しているのは『每日グラフ』別冊の「日本の戦歴」である(口絵として用いられた渡江写真の出典からそのことは明らか)。撮影の日時や場所などは「日本の戦歴」のキャプションにある情報だし、「進撃する部隊を追い第一線に向かう」というのも同じくキャプションからの引用である(ただし原文では「向かう」は「むかった」)。同じ箇所で千田夏光氏の『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』(西野氏は『従軍慰安婦』として引用)にも言及があるから、同書の「兵隊とともに行軍する朝鮮人らしい女性。頭の上にトランクをのせている姿は朝鮮女性がよくやるポーズである」という記述も念頭にあったことだろう。要するに西野氏は千田氏と「日本の戦歴」に依拠して渡江写真の女性たちを「朝鮮人慰安婦」としたのであり、別の情報に依拠してそう判断したわけではない。したがって『従軍慰安婦 元兵士たちの証言』を引き合いに出すのはまったく無意味なことなのである。

 続いて「この能川元一氏の『帝国の慰安婦』批判は最初で最大の間違いである」について(なおこちらの記事でもほぼ同じことが繰り返されている)。千田夏光氏が「写真」について記述した文章をとりあげておいて、「写真」は関係ない、「言葉」に注目したのだ、などという釈明が通用すると本気で考えているのであろうか? 百歩譲ってこの釈明を受け容れたとしても、千田氏の「言葉」において、「兵隊とともに行軍する朝鮮人らしい女性。頭の上にトランクをのせている姿は朝鮮女性がよくやるポーズである」と「占領直後とおぼしい風景の中に和服姿で乗り込む女性。中国人から蔑みの目で見られている日本髪の女性」とは別の女性二人組、すなわち前者は渡江写真の女性たちを、後者は和服写真の女性たちを、それぞれ記述したものである。この「言葉」から「なぜ朝鮮人慰安婦が、『日本髪』の『和服姿』で日本軍の『占領直後』の中国にいたのか。そしてなぜ『中国人から蔑みの目で見られてい』たのか」という問いを引き出すことはできない。千田氏の「言葉」がいうところの「占領直後とおぼしい風景の中に和服姿で乗り込む女性。中国人から蔑みの目で見られている日本髪の女性」は、(少なくとも千田氏の認識では)「朝鮮人慰安婦」ではないからだ。
 要するに kokubo 氏は「二枚の写真についての記述を一枚の写真についてのものと誤読した」という批判をかわすために、「千田氏の文章がなにを意味するかは無視して、ただその文字面だけを利用しました」と言っているようなものである。もしそうなら「誤読」とは比べものにならないほど悪質な行為ということになろう。

2016年4月21日木曜日

歴史修正主義は何によってそう認定されるか

 誤解されがちなのですが、歴史修正主義的な主張は「結論が通説と違うから」とか「日本軍を美化しているから」といった理由で「歴史修正主義的だ」と判断されるわけではありません。神ならぬ私たちは歴史記述それ自体だけをとりあげて「これは史実に合致している」とか「史実に反している」と判断することはできないからです。肝心なのはむしろある歴史記述(と主張されているもの)がどのような方法で導き出されているか、です。史料の取捨選択やその解釈、史料からの推論などがまったく妥当性を欠いている場合に「偽史」とか「歴史修正主義」という判断が下されるわけです。「おかしな結論」が出てくるのは「おかしな方法」が用いられているからなのです。一定の合理性を備えた方法によって導き出された歴史記述同士の対立は学術的な議論の対象になりますが、歴史修正主義は「疑似科学」の一種であって「歴史学の内部における、通説への挑戦」ではありません。
 朴裕河氏の『帝国の慰安婦』(朝日新聞出版、2014年)を徹底的に批判した鄭栄桓氏の『忘却のための「和解」』がまず焦点を当てているのも、『帝国の慰安婦』で用いられている「方法」です(『忘却のための「和解」』、195ページ)。逆にいえば、歴史修正主義批判の妥当性もまた、「方法」への批判の方法によって判断されることになります。

  私がみるところ、『忘却のための「和解」』は『帝国の慰安婦』に歴史修正主義的という評価を下すに足るだけの十分な理由があることを明らかにしています。その徹底した批判ぶりについてはぜひ『忘却のための「和解」』を読んで確かめていただきたいと思いますが、ここでは私自身が『「慰安婦」問題の現在』(三一書房、2016年)所収の拙稿(『季刊 戦争責任研究』第85号に掲載されたものを改題のうえ再録)でとりあげた事例を使って、『帝国の慰安婦』の「方法」がはらむ問題点を例証してみましょう。
  朴裕河氏は『帝国の慰安婦』104ページで「慰安婦問題を否定する人たちが、民間人が勝手に営業したと主張するのは、このような記憶が残っているからだろう」と主張しています。ここで「このような記憶」とされているのは、千田夏光氏の『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』(講談社文庫版のタイトルは『従軍慰安婦』)において元日本兵が「びっくりしたのは済南に入城した二日後に、早くも酌婦が入って来たことでした」「部隊に営業の許可をとることもなかったのでしょう」「形としては、民間人が勝手にやってきて勝手に営業している、ということだったのでしょう」という証言をその直前で引用していることを踏まえています。
 しかしこの主張には、ざっとみても3つの問題点があります。まず第一に、「民間人が勝手に営業した」という主張が「慰安婦」問題否認論にとって中心的なものだったのは「慰安婦」問題論争史の初期に限られ、吉見義明氏による「発見」以降は「善き関与」論にとって代わられていったという点です。言い換えればいまさら「民間人が勝手に営業した」論でもって「慰安婦問題を否定する人たち」の主張を代表させることは妥当ではない、ということです。
 第二に、「民間人が勝手に営業した」という主張が「このような記憶」によるものだという推論の根拠がまったく示されていません。状況から考えて自明であるとか、蓋然性の高い推論であることが読者にも直ちに納得できるからといった理由で、これを正当化できるでしょうか? 私たちはいまや、当時の与党自民党には中曽根康弘のように自ら軍慰安所を設置しておきながらだんまりを決め込んでいた人間がいることを知っています。防衛庁防衛研究所の資料専門官が吉見教授の発見した文書の存在を把握していながら、内閣に報告するのをサボタージュしていたこともわかっています(92年1月11日の『朝日新聞』朝刊に永江太郎資料専門官が「こういうたぐいの資料があるという認識はあった」とコメントしています)。そもそも従軍体験者のうち純民営の「慰安所」しか見聞しなかったひとはどれほどいたのか、そして1990年頃までどれくらいのひとが存命だったのか、が大いに疑問です。そうしたひとびとが「民間人が勝手に営業した」という認識の形成をリードしたのだ、というのはとても自明の事柄とは思えません。
 そして第三の、もっとも悪質な問題点があります。この元日本兵の証言には続きがあるのです。朴裕河氏が引用した証言と同じページで、この元日本兵は「北部中国に軍の管理する慰安婦と慰安所ができたのは三月か四月ごろではなかったかと思います」と語っているのです。つまりこの元日本兵は「民間人が勝手に営業した」という主張の根拠となるような「記憶」など持っていなかったのです! 純民営の「慰安所」しか知らなかった元日本軍将兵が存在した可能性は否定できませんが、少なくとも千田夏光氏の『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』に依拠して「このような記憶」なるものを語ることはできないはずなのです。朴裕河氏が引用した箇所から段落ひとつ、わずか数行を挟んで記されている「北部中国に軍の管理する慰安婦と慰安所ができたのは三月か四月ごろではなかったかと思います」という一節を見落とすというのは、ミスとしてはお粗末にもほどがあるミスであり、「捏造」の嫌疑をかけられてもしかたがない水準です。
 「完璧な人間などいないのだから一つや二つ間違いがあっても当然」という弁護は可能でしょうか? 『「慰安婦」問題の現在』所収の拙稿は『帝国の慰安婦』における『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』の援用のされ方をとりあげたものなのですが、なんとこのきわめて限定的なテーマで検討しただけで論文1本分の文字数に達してしまったのです。鄭栄桓氏の『忘却のための「和解」』ですら、『帝国の慰安婦』の問題点を網羅しているわけではありません。私自身、雑誌、書籍などの刊行物でいまだ言及されていない重大な問題点をほかにいくつも発見しています。
 では、このように問題点の多い書籍がなぜ高い評価を与えられてしまったのでしょうか? 『忘却のための「和解」』はこの点についてもきわめて示唆に富む分析を行っていますが、一般的に言えば歴史修正主義が受容されるのは政治的な動機によります。政治的な動機によってきわめて強いバイアスがかかっているために、ふつうならとうてい受けいれられないような強引な「方法」が看過されてしまうわけです。この意味で、私は歴史修正主義を「歴史学を装った政治運動」だと考えています。しかしながら、繰り返し強調しますが、ある歴史記述を「歴史修正主義的だ」と主張する際には、その歴史記述を導く「方法」に重大な問題があることが指摘されているのです。


2016年3月30日水曜日

3・28集会(「慰安婦問題」にどう向き合うか)に参加して

 管見の限りでは『ハンギョレ新聞』の日本語版サイトでしか報じられていないようですが、去る3月28日に東京大学駒場キャンパスで「『慰安婦問題』にどう向き合うか 朴裕河氏の論著とその評価を素材に」と題する集会が行なわれ(参加は事前登録制)、私も一参加者として議論に立ち会ってきました。集会で行なわれた議論の詳細を公表すること(するかしないかの決定も含めて)は主催者に委ねることとし、ここでは『帝国の慰安婦』に批判的な立場で参加した私の思ったところを書いておくことにしたいと思います。

 これまで『帝国の慰安婦』に関しては事実誤認、先行研究の誤解や無視、史料(資料)の不適切な扱いといった問題点が多数指摘されてきたわけですが、それらについて「いや、朴裕河氏の……という事実認識は正しい」「これこの通り、先行研究はきちんと踏まえられている」「その資料はきちんと文脈を踏まえて引用されている」というかたちでの具体的な反論は一切なかったと言ってよい、と思います(文末に注を追記)。西成彦氏、岩崎稔氏らの発表は、これらの瑕疵について曖昧に(「脇の甘いところがあるのは確か」といった表現で)認めたうえで、そうした瑕疵にもかかわらず『帝国の慰安婦』が持ちうる価値について語ろうとするものだったということになります。例えば西氏は「馬跳びの馬」という喩えを用いて、『帝国の慰安婦』を「跨ぎ越え、そして出来る限り遠くまで飛んでみせるのが研究のあるべき姿」だと主張していました。しかしながら、手を着けばバラバラになってしまうようなものは「馬跳びの馬」足りえません。下手に飛べば怪我をするだけです。「研究のあるべき姿」とはまずもって「先行研究」、この場合は『帝国の慰安婦』が「馬跳びの馬」足りうるものであるのかどうかを検証し、その検証結果を広く市民に伝えることなのではないでしょうか?

 もちろん、いかなる瑕疵もない先行研究などたとえあったとしてもごく稀でしょう。しかし『帝国の慰安婦』にかけられている嫌疑とは (1)その中心的な主張の論拠について、(2)とうてい軽微とはいえない深刻さの誤りが (3)少なからず存在している、というものなのです。28日に話題にならなかった――そして鄭栄桓氏による『帝国の慰安婦』批判の新刊『忘却のための「和解」』(世織書房、2016年3月)でもとりあげられていないケースをここで例にあげておきましょう。『帝国の慰安婦』の41ページで朴裕河氏は森崎和江の『からゆきさん』の一節を引用し、それを根拠として「おそらく、軍慰安所の第一の目的、あるいは意識されずとも機能してしまった部分は、高嶺の花だった買春を兵士の手にも届くことにすることだった」と主張しています。ところが、そこで引用されている『からゆきさん』の一節――歴史を扱った文献としては実に不用意なことに、「いつ、どこで」のことなのかが判然としないかたちで引用されています――はなんと日露戦争当時の大連の買春事情を記述したものなのです。これが1930年代後半に本格的に制度化されていった軍「慰安所」の「目的」に関する論拠たりえないことは明白でしょう。
 そして「慰安所」設置の「目的」に関する従来の通説の否定は、『帝国の慰安婦』の中心的な主張にとって大きな意味を持っています。「性病予防」などが軍の目的であったとする通説は「朝鮮人慰安婦」を「精神的『慰安』者」(77ページ)として描こうとする朴裕河氏にとって「殺伐」(85ページ)すぎるからです。また「性病予防」という目的は軍が「若い朝鮮人女性」を求める動機をもつ理由となったと考えられてきましたが(『帝国の慰安婦』が高く評価する千田夏光氏もまたそう考えていました)、「朝鮮人慰安婦」を「少女」として表象することを批判する朴裕河氏にとってそうした軍の動機は否定されねばならない(65ページ)ものだったからです。

 さてそうならば、『帝国の慰安婦』になお積極的な価値を見出そうとする人びとがなにをおいても行なわなければならないのは、次のような作業です。すなわち、これまでに問題が指摘されてきた多くの箇所(のうち反論しようのないもの)をすべて削除し、可能ならば補強を施したうえで『帝国の慰安婦』の中心的なテーゼが維持できるかどうかを検証すること、です。こうした作業抜きでは“建設的”な議論は成立し得ないでしょう。

 『帝国の慰安婦』に高い評価を与える人びとにもう一つお願いしたいのは、仮に『帝国の慰安婦』の主要なテーゼがこの社会で受けいれられたならばそれによって一体どのような展望がひらけるのか、具体的に示していただきたいということです。日韓間の敵意のスパイラルを止める。歴史修正主義が蔓延する状況を変える。日本軍「慰安婦」問題に解決をもたらす。いずれも私たちが直面している重要な課題でしょう。でも、こうした課題にとって『帝国の慰安婦』がいったいどのように貢献してくれるというのかが、私にはまったくわからないのです。むしろ現在の日本の言論状況を考えるなら、『帝国の慰安婦』は「問題が解決しないのは頑なな支援団体のせいである」というすでに日本社会で支配的になってしまっている認識を強化し、「もはや日本側がすべきことはなにもない」という意識を助長するだけではないのでしょうか? こうした疑問に説得力のある回答が与えられたならば、その時初めて私も『帝国の慰安婦』がもちうる積極的な価値の存在を信じることができるでしょう。



注:記事を公開してから、具体的な論点についての反論と評すべきものが一つあったと言えるかもしれない、と思いあたったので追記しておく。『帝国の慰安婦』が元「慰安婦」の「多様」な声を知らしめたという評価が妥当かどうか、という論点をめぐって。これについては (a) そもそも朴裕河氏が挺対協らの編纂した証言集に大きく依存していることから明らかなように、支援団体は決して「多様」な声を隠蔽したりしていないという批判と、(b) 『帝国の慰安婦』は正しく元「慰安婦」の声を聞き取っているのか、被害者の証言を文脈から外れて断片的に利用したり、男性日本人作家の小説を無批判に利用してはいないか、という批判が行なわれた。これに対して、しかし支援団体らの「マスターナラティヴ」としてはやはり「被害者」という側面が前面に出ていたのは事実ではないのか、という再反論が提示された。
 ただ、これが (a) の論点に関しては再反論となっているにしても、(b) の論点についてはそうではない、ということに留意する必要がある。
 なおこの点について私見を述べるなら、リドレス運動という文脈で「マスターナラティヴ」が「被害」の側面に偏することがあったとして、それを支援団体に帰責するのが妥当かどうか、という問題がまずはあろう。むしろ、被害者の尊厳に留意しつつも別の文脈を構築できなかった社会(特に研究者)の側にこそ反省すべき点はあるのではないか。次に、韓国の言論事情についてはいざしらず、日本においては「兵士との恋愛や仲間意識」「業者の責任」などは右派論壇においてむしろ積極的に語られてきた、という事情がある。こうした右派からの対抗言説も踏まえて判断したとき、『帝国の慰安婦』がなにか新しい「声」を日本社会に提示できているのかどうか、吟味すべきことではないだろうか。




2015年11月8日日曜日

「慰安婦」問題否認論と痩せ細った「自由」

南京大虐殺否定論と日本軍「慰安婦」問題否認論との間には共通点が多々ありますが、かなり重要だと思われる違いもあります。後者の場合、「まさに日本軍『慰安所』制度が性奴隷制であった」ことを示す文書を得意げに持ち出して旧日本軍を弁護しようとする現象が非常にポピュラーなのですが、前者についてそういうケースはあまり記憶にありません。日本軍「慰安婦」問題の場合、ある事実の存否をめぐる争い以上に存否については争いのない事実についての理解の違いが焦点となることが多いということです。

例えば否認派は「廃業を許可する規定があった」とか「外出を許可されたとこの文書に書いてある」などと主張します。廃業や外出に「許可」が必要であったという事実こそ、軍「慰安所」制度が性奴隷制とされる所以なのですが。その点を指摘されると「働かなければ食っていけないのは我々だって同じだ」とか「会社員だって勤務中に勝手に出かけることはできない」とか「『慰安婦』に居住の自由がなかったというなら、転勤のあるサラリーマンだって同じじゃないか」などと彼らは“反論”します。匿名のネット右翼がこうした主張をするだけでなく、吉見義明教授に損害賠償請求訴訟を起こされた桜内文城氏(元霞が関の官僚にして元国会議員)が法廷で同じような主張をしているのですから、ただの「たわごと」として片付けることもできません。

むしろ日本軍「慰安婦」問題否認論者の認識は、この社会で蔓延している「自由」についての貧しい理解と通底していると考えるべき理由があります。例えばサーチエンジンで「有給 理由」をキーワードとして検索してみると、「有給休暇を所得するにあたって、会社に申し立ててよい理由とはどのようなものか?」に関連したコンテンツが多数見つかります。しかもそのうちの少なからぬ割合を、「有給を取得するにあたっては、社会人として妥当な理由を申し立てるべきである」という認識に立つものが占めているのです。

また在特会などいわゆる「行動する保守」諸団体の街宣に際して、彼らが抗議者に対し「私たちは(街宣の)許可を取っている!」と叫ぶのもおなじみの光景です。

これらの事例は、有給休暇の取得や政治的見解の表明の「自由」が、勤務先や警察の「許可」に従属していることを当然視する認識が、この社会では決してまれなものではないことを示しています。有給休暇の取得にあたっては会社が納得する理由がなければならないと考える人が、「外出を許可されていたのなら外出の自由はあったんじゃないか」と考えるのは不思議ではないのでしょう。

もしそうだとすれば、日本軍「慰安所」制度の問題点をこの社会が正しく理解することは、現代を生きる私たち自身がまともな自由を取り戻すことにもつながるのであり、逆に言えば「私たちがいかに自由でないか」への気づきなくして日本軍「慰安婦」問題否認論の克服もない、ということになるのではないでしょうか。

2015年10月26日月曜日

見開き図版、綴じ(ノド)部分について

 『憎悪の広告 右派系オピニオン誌「愛国」「嫌中・嫌韓」の系譜』(能川元一+早川タダノリ、合同出版、2015年9月)に掲載された図版のうち、見開きで掲載されているため綴じ(ノド)部分が判読しにくくなっているものが少なからずあります。以下、隠れている綴じ部分のみを掲載いたします。
・図1-1
・図1-2
・図1-6
・図1-9、1-10
・図1-12
・図2-1


・図2-5

・図2-6、2-7

・図2-8

・図3-3

・図3-4

・図3-9、3-10

・図3-11

・図4-6、4-7

・図4-8



・図5-6

・図5-7

・図5-9


・図6-1

・図6-2

・図6-5

・図6-8

・図7-1


・図7-9


・図9-8

・図9-9














2015年9月13日日曜日

『憎悪の広告』図版関連データ(非公式版)

 『憎悪の広告 右派系オピニオン誌「愛国」「嫌中・嫌韓」の系譜』(能川元一+早川タダノリ、合同出版、2015年9月)に掲載された図版について非公式に集計したデータです。
・総図版数=146点 うち複数の章で重複して用いられているものが5点あるので実質は141点。


・『正論』の広告が59点、『SAPIO』の広告が41点、『諸君!』の広告が38点、その他が3点。
 臨時増刊号を除外して計算すると、『正論』と『諸君!』については調査対象期間(ただし『諸君!』は2009年に廃刊)の広告の2割超をカバー。『SAPIO』は2012年11月号以前は月2回刊だったため母数が大きく、1割程度の収録率。

・1994年〜1999年のものが26点、2000年〜2004年が40点、2005年〜2009年が38点、2010年以降が37点。

・広告にレイアウトされた肖像写真の数。(  )内は寄稿者として登場している号の数
 安倍晋三=30(11)
 石原慎太郎=24(19)
 櫻井よしこ=35(35)

・広告中で「朝日」ないし「朝日新聞」への言及があるのは34点。

2015年9月12日土曜日

『憎悪の広告』正誤表(15年9月10日時点)

 『憎悪の広告 右派系オピニオン誌「愛国」「嫌中・嫌韓」の系譜』(能川元一+早川タダノリ、合同出版、2015年9月)の初版1刷に残っていた誤植の正誤表です。お買いあげいただいた方々にお詫びいたします。(遺憾ながら)さらに発見した場合にはこの記事に追記してまいります。
・106ページ、図8-3へのコメント  誤:「だから日本が好きだ」 正:「だから、日本が好きだ」
 ・135ページ、図10-2へのコメント   誤:「阿南大使よ、」 正:「阿南大使、」
 ・170ページ本文下段   誤:国際人権委 正:国連人権委
 ・182181ページ本文(10月29日:読者の方からのご指摘により訂正)  誤:韓国と河野談話に転化 正:韓国と河野談話に転嫁
・199ページ、注(2)   誤:吉田裕『日本人の戦争観…… 正:吉田裕、『日本人の戦争観……



2015年8月22日土曜日

『憎悪の広告』(合同出版)、まもなく刊行です

『神国日本のトンデモ決戦生活』(合同出版/ちくま文庫)等の著書がある早川タダノリさんとの共著、『憎悪の広告−−右派系オピニオン誌 「愛国」「嫌中・嫌韓」の系譜』が合同出版より9月上旬に刊行されることとなりました。
http://www.godo-shuppan.co.jp/products/detail.php?product_id=481
全208ページで141点の図版(うち139点が右派論壇誌の新聞広告)を掲載、広告に踊るコピーを通して右派論壇の20年史を描き出そうとする試みです。
本に盛り込めなかった情報などは当ブログやツイッターなどでおいおい補足させていただく予定です。

2015年7月4日土曜日

「未来のための歴史パネル展」プロジェクトについて

今、日本では過去の侵略や加害の歴史を軽視したり、なかったことにしたりしようとする、歴史修正主義の動きがさかんになっています。テレビ、書籍、新聞、雑誌といったメディアでも、政治の場でも、過去の歴史を都合よく解釈し「日本はつねに正しかったのに、不当に攻撃されている」とする主張がよく見られます。市民会館などの公共施設でこうした意見を広めるパネル展を多くおこなっている団体もあります。こうした動きはアジアの国々や人々や、外国とのつながりを持つ、日本で暮らす人々への敵意や憎悪を煽ったり、差別と偏見を強めたりします。  私たちは、こうした状況を見過ごすことはできない、と決心しました。私たちは、人が差別されたり追放されたりする社会を望みません。人と人、国と国が対立し争い合う未来を望みません。未来は、過去の歴史をきちんと認識することによってしか開けません。多数派の人々にとって心地のよい物語だけが語られる社会になってはならないと考えます。  すべての人に開かれた歴史を知り、多くの人たちと共有するために、まず日本と韓国・朝鮮の近代史を考えるパネルを作りたいと思います。2015年の夏までに、専門家の助言も得て40枚のパネルを作り、8月を皮切りに、各地で展示をする予定です。完成したパネルを無料でお貸しし、展示の輪を広げたいと思います。できるだけ軽いパネルにして、送料を安くする工夫も考えています。  このプロジェクトの目標は日本に暮らす様々な人々と、東アジアの国々に暮らす様々な人々と、ともに歴史に向き合い、お互いの未来を考えていく場を作ることです。息の長い活動にしてゆきたいと思っています。皆様のご指導、ご協力、ご支援をよろしくお願い致します。 パネル制作費の寄付を募っています。こちらに案内記事がありますので、ごらんください。http://mirepa.tumblr.com/post/122771668626

2015年5月3日日曜日

『帝国の慰安婦』における植民地/占領地の二分法について/『帝国の慰安婦』私的コメント(4)

1. 『帝国の慰安婦』における「植民地/占領地」図式  日本軍「慰安婦」とされた女性たちの境遇が多様であったこと、その多様性をもたらす要因の一つが女性の国籍およびエスニィシティであったことは先行研究においても指摘されてきたことである。その限りでは、「植民地出身の慰安婦」と「占領地出身の慰安婦」の区別そのものは目新しいものではない。『帝国の慰安婦』の特徴は植民地/占領地という区別を強調することにより、占領地出身の「慰安婦」は「厳密な意味では『慰安婦』とは言えない」(45ページ)とまで主張するところにある。  では植民地出身の(というより朝鮮人の)「慰安婦」と占領地出身の「慰安婦」の違いとは何か? 『帝国の慰安婦』によれば、その違いは「そこで朝鮮人は『日本人』でもあった」(57ページ)こと、他民族の「慰安婦」とは異なり「〈故郷〉の役割」(45ページ)や「女房」(71ページ)としての役割、「精神的『慰安』者としての役割」(77ページ)、「〈代替日本人〉」の役割を期待されまた果たすことができ、日本人兵士との間に「『同じ日本人』としての〈同志的関係〉」(83ページ)を持っていたことだ、とされている。  朴裕河氏のこのような主張を支えているのが「〈自発の自己強制〉」(60ページ)、強制的な協力(144ページ)、といった概念である。すなわち、「構造的に誰かが国家による国民動員の〈協力者〉になるほかなかった状況こそが、〈植民地という事態〉だった」(49-50ページ)のであり、それゆえに植民地出身の「慰安婦」と占領地出身の「慰安婦」とは峻別されねばならない、というのである。 2. 「植民地/占領地」図式の観念性  このような図式の問題点の一つは、それがあまりにも観念的であるという点にある。『帝国の慰安婦』を一読すれば明らかなことだが、「慰安婦」たちの体験の「多様性」を強調する同書は同じ「植民地」である台湾の元「慰安婦」の「声」にも、また占領地の「慰安婦」として朝鮮人「慰安婦」と対照をなすはずの中国・フィリピン・インドネシア等の被害者たちの「声」にも、ほとんど関心を払っていない。普通に考えれば、『帝国の慰安婦』の中心的なテーゼの妥当性を確証するには、他地域出身の「慰安婦」の体験との比較対照が不可欠なはずである。植民地/占領地の峻別に基づく同書の主張は、朝鮮半島よりも日本の植民地としての歴史が長い台湾人「慰安婦」については少なくとも朝鮮人「慰安婦」と同等程度に妥当しなければならないはずである。また、著者が主張するような植民地出身の「慰安婦」の特異性が実際に認められるのかどうかは、占領地から動員された「慰安婦」の体験との違いに基づいて判断されねばならないはずである。しかし同書では植民地の「慰安婦」と占領地の「慰安婦」との違いはいわば自明の前提とされており、著者が朝鮮人元「慰安婦」の証言集や日本人作家の著作から拾い上げた「声」は直ちに朝鮮人慰安婦の経験の特異性を示すものとされてしまっている。  その結果として、「慰安婦」の体験の多様性を強調しているはずの同書は占領地の「慰安婦」たちの体験については非常に単純化されたイメージを提示することになってしまっている。そもそも“協力を強制される”のは植民地に固有のことではなく、占領地においても生じることである。「満洲」国や汪兆銘政権のような日本軍の傀儡政権下で暮らしていた人々は、なるほど朝鮮人や台湾人のように「日本人」とされることこそなかったものの、日本の同盟国の住民にはされていたのであり、「皇民化教育」に対応するものとして「五族共和」や「大東亜共栄圏」といったプロパガンダによる精神的な動員の対象にもされていたのである。果たして著者や『帝国の慰安婦』の賞賛者たちは「漢奸」という言葉を聞いたことがないのだろうか? 日本軍の燼滅掃討作戦(三光作戦)の対象となった華北地域の元「慰安婦」被害者ですら、戦後に「対日協力者」扱いされることがあったのは、支援者や研究者にとってはよく知られた話である。  もちろん、植民地と占領地の共通点を踏まえてもなお両者の間には“強制された自発性”の様態や程度に違いはあると主張することは可能であろうが、そうした主張の根拠を示すための作業は同書においては一切なされていない。それでいて「娘子軍〔=朝鮮人「慰安婦」〕、従軍慰安婦こそがもっとも悲惨な体験をしたことは忘れられるべきではない」(141ページ)などと断じるのは、他地域の「慰安婦」被害者に対する侮辱ではないのだろうか?  植民地/占領地という図式の(悪い意味での)観念性は、「ホロコーストには朝鮮人慰安婦が持つ矛盾−−すなわち被害者で協力者という二重の構造は、すくなくとも一般的にはない」(156ページ)という、かなり乱暴な主張にも反映している。書評において朴裕河氏を「一部のユダヤ人によるナチス協力にさえ言及したハンナ・アーレント」になぞらえた政治学者は、その朴氏本人がユダヤ人評議会の対独協力(あるいは「ゾンダーコマンド」の存在)など念頭に置いていないらしいことを、どう考えているのだろうか? 3. 「植民地の慰安婦」概念そのものの混乱  さらに、『帝国の慰安婦』における「植民地の慰安婦」概念には次に述べるような混乱がみうけられ、著者が朝鮮半島出身の「慰安婦」という存在について整合的な理解を持っているのかどうかすら疑われる。
 例えば著者は朝鮮人「慰安婦」の特徴として「日本語の理解度が高」かったことを挙げている(138ページ)。しかし「挺身隊」と「慰安婦」との違いを述べる際には、「挺身隊に動員された若い人は学校教育システムの中にいた者たち」(54ページ)だったのに対して「現実に現れている『慰安婦』の多くが、貧困による無学者か、低レベルの教育しか受けなかった人たちである」(53-54ページ)とされているのである(149ページも参照)。1943年末の段階で日本語能力が「悄々〔=少々〕解しうる」レベルだった朝鮮人が9.9%、「普通会話に差支なき」レベルであった朝鮮人が12.3%であった(趙景達、『植民地朝鮮と日本』、岩波新書、189ページ)ことを考えるなら、「多くが、貧困による無学者か、低レベルの教育しか受けなかった」朝鮮人「慰安婦」たち一般にそのような言語的アドバンテージがどの程度あったのか、はなはだ疑問と言わねばならない。  さらに、著者は「朝鮮人慰安婦」という存在を生み出した原因について「朝鮮が植民地化したということこそがもっとも大きな原因」(138ページ)だと言う一方で、「朝鮮人女性が多かったのは確かでも、そのことが宗主国日本が意識して植民地の女性をターゲットにして動員した、ということになるのではない」(137ページ)、「つまり、植民地だったことが、最初から朝鮮人女性が慰安婦の中に多かった理由だったのではない」(同所)、とも主張している。「内地という〈中心〉を支える日本のローカル地域になり、改善されることのなかった貧困こそが、戦争遂行のための安い労働力を提供する構造を作ったのである」(138ページ)、とも。さらに「家父長制と国家主義と植民地主義」が「朝鮮人慰安婦」を生み出したとしている箇所もある(34ページ、また38、66ページも参照)。植民地主義、構造的貧困、家父長制、国家主義……いずれも日本軍「慰安婦」の存在を考えるうえで重要な論点であるのは確かだが、構造的貧困や家父長制などは植民地朝鮮に固有の問題ではない。これだけ論旨が混乱していると果たして「朝鮮人慰安婦」にどれほどの固有性があると言えるのか、読者としては困惑するしかあるまい。 4. 「帝国」概念の混乱  「植民地」と対をなす「帝国」の概念もまた首尾一貫して用いられているとは言い難い。例えば次の一節をご覧いただきたい。
 「慰安婦」という存在は帝国主義(近代化)とともに組織化されたが、帝国崩壊後にもアジアで「慰安婦」システムが続いたのはすぐに本格化した冷戦体制のためだった。一九六五年の日韓協定が個人の被害が十分に考慮されないまま結ばれたのも、冷戦体制下にいたためだったことを考えると、近現代の慰安婦たちは帝国主義に動員され、冷戦維持に利用され、しかも冷戦のために補償してもらえなかったことになる。そしてアメリカの軍基地体制を新帝国体制と呼べるなら、いまなお世界の覇権を目指す帝国に女たちは利用されていると言わねばならない。(295ページ)
これは在韓米軍基地周辺、いわゆる「基地村」の売買春問題について述べた部分の一節である。植民地の「慰安婦」と占領地の「慰安婦」の区別にあれほどこだわった著者は、ここでは1937年以降本格的に制度化された日本軍「慰安所」制度を「近代化」とともに組織化されたものとし、日本敗戦後の韓国「基地村慰安婦」にも連なるものとしている。このような意味で「帝国」を用いるなら、植民地と占領地を峻別することに一体どのような意味があったのだろうか? 同じく、韓国「基地村」問題について、著者は次のようにも述べている。
 日本軍慰安婦問題が注目されたのは、彼女たちの体験を深刻な人権蹂躙と考えるほかないような過酷なものだったからである。しかし、米軍のために用意された女性たちの生活も、米軍の相手をするようになるまでの過程や、その後の生活を見る限り、日本軍慰安婦の状況と根本的には違いがない。彼女たちもまた、同じような悲惨な生活をしたのであり、そのような苦痛が、モノとしてあつかわれるような環境と、過酷な性労働ゆえのものだったのは言うまでもない。そして彼女たちがそのような境遇に陥ったのは、そこに国家が作った軍隊があったからである。(290ページ)
これが「朝鮮人慰安婦」は当時においては「日本人」であったことを強調し、「中国人女性たちは(中略)厳密な意味では『慰安婦』とは言えない」(45ページ)と主張した著者の筆から出た文言であると信じることができるだろうか?

2015年4月7日火曜日

千田夏光氏の「時代的拘束」について

 『帝国の慰安婦』は「いわゆる『慰安婦問題』の発生後の研究や発言が、『日本軍』をめぐる過去の解釈にとどまらず、発話者自身が拠って立つ現実政治の姿勢表明になった」とし、1973年に『〝声なき女〟八万人の告発−−従軍慰安婦』(双葉社)を刊行した千田夏光氏については「そのような時代的な拘束から自由だった」であろうとしている(いずれも26ページ)。73年に書かれた本が91年以降の「時代的な拘束」をまぬがれているのは当然であり、またそれゆえに一定の意義を持つであろうことは確かだろうが、逆に千田氏は千田氏で彼自身が属した時代に「拘束」されてもいたはずである。

 例えば双葉社版97-98ページ、講談社文庫版122ページには元関東軍参謀原善四郎氏と千田氏との対話の形で次のようなやりとりが記されている。
(前略) 「すると、朝鮮人女性は兵隊の精神鎮痛剤もしくは安定剤だったのですね。日本人の女性を集めることは考えなかったのですか。考えなかったとすれば、朝鮮人女性の方が集めるに罪悪感もしくは、抵抗感を覚えなくて済むからだったのですね」 「北満の駐屯地には大連(現旅大市)とか奉天(審陽)の花柳街から鞍替えして来た日本人女性もいました」 「でもそれはいわゆる慰安婦でない、つまり普通の商売女だったのではないですか」 「そうかも知れません」
「花柳街から鞍替えして来た日本人女性」について「慰安婦でない、つまり普通の商売女」だとしているのが千田氏の方である。『帝国の慰安婦』でも批判されている認識、すなわち女性を「商売女」とそれ以外とに分け、「慰安婦」制度の問題点を“無垢な女性”に性的サービスを強要した点に見いだす発想を千田氏が(そしてまた原氏も)持っていたことがわかる。

 また「閑な部隊では慰安婦は軍人にとって『部隊の一員』であり、『女房みたい』に扱われていたと言う」(71ページ)という記述の根拠として『帝国の慰安婦』の70-71ページで引用されている元陸軍将校の証言(双葉版65-67ページ、文庫版84-86ページ)のうち朴裕河氏が引用していない部分には、軍医の検診を受けている「慰安婦」の様子を「高倍率の双眼鏡」で覗いていたという“思い出話”も含まれている(「楽しみといってはなんですが、検診もまた兵隊は楽しんでいました」「股をひろげているのが手に届くように見えるのです」「彼女らの検診まで、無聊をかこつ兵隊にとっては憂さを晴らす材料になっていたのでした」)。時として元軍人たちの人権意識に批判的なコメントもしている千田氏は、このエピソードについては「ここでわかるのは、兵隊たちは腰をすえる警備段階になると、彼女らを性欲の処理対象としてだけで見なくなっていたようであることだ。それにしてもユーモラスなのはこんな話であった」とコメントしている(双葉版67ページ、文庫版86ページ)。1924年生まれの故人が、検診の場面すら性的に消費される女性たちの立場を想像できていないことをあげつらっても詮無いことだ、とは言えるかもしれない。しかし性暴力についてのこのような「時代的な拘束」を被っている男たちの口から語られる「女房みたい」「部隊の一員」を現代の私たちが評価するにあたっては細心の注意を要するはずである。

 千田氏の「時代的拘束」のもう一つの例としては、日本軍が占領地から動員した「慰安婦」の徴集方法に関する認識がある(双葉版187-190ページ、文庫版227-230ページ)。「中国人、マレー人、タイ人、ビルマ人、インド人女性」ら「現地人女性」は「自由売春」「単純に金銭欲からくる意思による売春であるとしていい」とされ、「現地軍による現地人女性の強制慰安婦化はなかったのである」としてしまっているのである。むしろ占領地でこそ起こっていた直接的暴力による拉致・監禁を突き止められなかったことはやむを得ないことであったかもしれない。問題はむしろ、「現地人女性」の置かれていた立場を「敗戦後の日本女性と進駐軍とのあり方や関係とくらべて見た方がいい」という視点を持っていながらなお、「はっきり言えば自由意志による単純売春希望者の募集」であったと千田氏が考えている点にある。「彼女らにそうしなければならぬ状況をつくらせたものへの追究はここでもおくとして」(原文の傍点を下線に変更)とか「被占領地になるという状況が、こうした女性を生み出していくことも事実」だと断っている千田氏がなぜここまではっきりと「自由意志による単純売春」だと言ってしまえるのか不思議でならないが、「時代的拘束」のなせるわざということなのだろうか。

2015年4月2日木曜日

「挺身隊」を知らなかった千田夏光氏

 以前に千田夏光氏の『従軍慰安婦』を読んだのはずいぶん前のことなので、今回読み直して色々と発見があったのだが、その一つに千田氏が「挺身隊という言葉のあること」を取材を通じて「初めて知りました」と述べていることがある(講談社文庫版、148ページ)。1924年生まれで敗戦時には成人しており、戦後は新聞記者として働き、写真集『日本の戦歴』の編集にも関わった千田氏が「挺身隊」という語の存在すら知らなかった、というのである。
 
 しかし考えてみれば、戦時動員をどういう名目で、どういう法的根拠で行うかといったことは動員する側の関心事ではあっても、動員される側にしてみればそうとは限らない。むしろ「動員されること」それ自体がまずは重大なのであって、その名目やら法的根拠は二の次、三の次だというのが普通だろう。

 右派は「挺身隊」と「慰安婦」の混同についてあれこれと邪推して見せるわけだが、動員された側に取材したジャーナリストが「(女子勤労)挺身隊」が正確にはなんであるのかについてさほど関心を持たなかったとしても、特に不思議はないのではないだろうか。