2023年7月22日土曜日

森万佑子『韓国併合』

 -森万佑子『韓国併合―大韓帝国の成立から崩壊まで』、中公新書、2023年

著者の専門は朝鮮半島の地域研究。従来日本では歴史学や政治学の文脈でとりあげられることが多かった「日韓併合」を、特に高宗の視点を重視しながら「大韓帝国が成立して崩壊していく過程」として描く試み。近代の日朝関係を朝鮮・大韓帝国の視点を中心にして描いた一般向けの書籍がなかったわけではなく、例えば岩波新書ならば超景達『近代朝鮮と日本』などがあるが、「日韓併合」というテーマに特化したものではない。このテーマに関する文献を幅広く読んできたわけでもないので「管見の限り」にもほどがあるけれども、新鮮な読書体験であった。特に朝鮮・大韓帝国側の史料がもつ特徴についての指摘は勉強になった。

「日韓併合」について語る際に避けることができないのはその法的な評価である。「徴用工」問題ひとつをとってもその根っこはそこにあると言ってよい。本書では(併合を「正当」とする立場は論外として)併合の合法性をめぐる代表的な見解を紹介したうえで、著者自身の結論は「主な対立の焦点が国際法であるため国際法が専門ではない筆者が、法学的な観点から結論を述べることは避けたい」(「終章」)としている。ただし否定し難い「史実」として一に「多くの朝鮮人が日本の支配に合意せず、歓迎しなかった」ことを、二に「日本人が朝鮮人から統治に対する「合意」や「正当性」を無理やりにでも得ようとしたこと」の二つを「終章」の結びで述べている。「併合」が当時の朝鮮人の臨んだことであるという歴史修正主義者の主張は否定されていると言えよう。

ただそれだけに驚いた記述が2つほどある(いずれも「終章」の「植民地の請求権問題」という見出しが付された節)。一つは河野談話やアジア女性基金を評して日本政府が「真摯に対応」(ルビを省略)したという記述。まず河野談話について言えば、その中に含まれる「歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ」るという「決意」がなし崩し的に反古にされ、第二次安倍政権下ではむしろ攻撃の対象となってきたという明らかな事実を無視している。アジア女性基金についても、私はこの基金の設立や運営にあたった人々の主観的な誠意を疑うものではないけれども(ただし大沼保昭氏の事後的な正当化は極めて欺瞞的であると評価せざるを得ない)、当時を知る者にとってこの基金が右派との政治的妥協の産物であることは自明だった。著者も「韓国国民からの支持が得られなかった」と認めている2015年の「慰安婦合意」(著者の表現)の失敗も、アジア女性基金の問題点を否認し続けた結果ではなかっただろうか?

そしてもう一つが次の一節だ。

 民主化以後の韓国では、国民の合意が得られない国家間の取り決めは意味を持たない。そして、韓国の国民が持つ歴史認識は道徳に価値が置かれている。韓国の場合は「歴史(認識)とはこうあるべき」という道徳的価値観から史実を見ていると言える。韓国史は「우리역사(ウリヨクサ)」(われわれの歴史)と呼ばれる韓国人の歴史なのである。

 一方、日本は歴史には複数の見方があるとの前提で、自国史も客観的に、淡々と史実を教えようとする。両国の歴史教育には明らかに距離がある。   

(原文のルビを( )書きに改めた)

 ここには複数の問題点がある。といっても、実はこのような言説は2015年の日韓「合意」や「徴用工」問題の外交問題化以降、日本のメディアで「韓国専門家」によってひろく流布されてきたものである(「あとがき」でそうした韓国専門家の一人に謝辞が送られている)。したがって以下はひとり本書の著者についてのみあてはまることではない。

まず第一に、このような認識は日本政府が国際条約に基づく国際人権機関等からの要求のいくつかを無視し続けているという厳然たる事実を無視している。例えば高校無償化から朝鮮学校を排除するのは人種差別撤廃条約に反しているのだが、「国民の理解が得られない」という理由で排除は続けられたままである。なぜこうした事態を「国民の合意が得られない国家間の取り決めは意味を持たない」と評価しないのだろうか? ちなみに、SNSで朝鮮学校への無償化適用に反対する投稿を見かけると私は時折「国民情緒法!」というコメントをつけることがあるが、これはもちろん2015年の日韓「合意」以降朝鮮半島地域研究者などが韓国政府の行動を「分析」する際に用いてきたフレーズである。

第二が「歴史教育」についての認識である。公教育で行われる歴史教育が圧倒的に「われわれの歴史=日本人の歴史」であるのは日本だって同様である。第二次安倍政権以降とりわけ、歴史教育に「道徳的価値観」を反映させようとする志向が露骨になったことも私たちは見てきたはずである。

たしかに「歴史には複数の見方がある」という口上はこの社会で広く用いられている。しかしそれはもっぱら他者の歴史認識に由来する要求を拒絶する口実に用いられているのではないか? 「歴史には複数の見方がある。つまり日本には日本の歴史観があって当然だ」というわけだ。歴史認識の普遍性を否定し複数性を引き受けるとはどういうことなのかを突き詰めて考えることなしに、安易な相対主義に流れている(しかもその結果として自国中心主義的歴史認識が温存される)のが日本の現状なのではないだろうか。