2023年7月30日日曜日

中尾知代『戦争トラウマ記憶のオーラルヒストリー』

 -中尾知代『戦争トラウマ記憶のオーラルヒストリー 第二次大戦連合軍元捕虜とその家族』、日本評論社、2022年

第二次大戦に関するトラウマ的な体験の聞き取りを長年にわたって続けてきた著者による(ひとまずの)集大成的著作。聞き取り対象者の中心は日本軍の捕虜となった元イギリス軍将兵だが、国籍はその他オランダ、アメリカ、オーストラリアなどに、また日本軍との関わりでは民間抑留者や元捕虜の家族にも及んでいる。

アジア・太平洋戦争を批判的にとらえ直す市民運動が盛んだった時期には日本軍の捕虜となった連合国将兵の回想を翻訳・出版したり日本で証言集会を開くといったことも行われていたが、やはり戦後の日本においてアジア・太平洋戦争について語られてきたことのうち、連合国将兵の捕虜体験についての語りが占める割合非常に僅かだったと言えるだろう。その理由としてはまず第一に、日本語の言論空間が海外から孤立していた時期にBC級戦犯裁判に関する日本側関係者の言い分が一方的に流布してしまったことがあるだろう。また侵略戦争や植民地支配に対して自覚的な市民運動にとっては、アジアの戦争被害の声を聞くことがまず優先されるべき課題であった、ということもあると思われる。戦後補償問題がある程度の認知を得るようになると今度は「和解の成功」を喧伝する言説が元捕虜たちの苦しみを覆い隠すようになってしまう(この点については本書の第7章でも触れられているが、著者の前著『日本人はなぜ謝りつづけるのか』にも詳しい)。

本書の全体としての構成は版元サイトで閲覧できる目次で確認できるのでそちらを参照されたい。著者が聞き取ってきた元捕虜・抑留者たちの経験をその家族との関係において(第3章、4章)、トラウマ記憶に関する学術的な知見との関係において(第5章)、またオーラルヒストリーという営みとの関係において(第6章、7章)分析しようとする試みのうち、私がまず関心を引かれたのは元捕虜たちの体験がその妻や子どもたちに及ぼした関係、という視点だ。近年、復員後に“ひとが変わった”ようになった父との関係に苦しんだ体験をNHKが番組化し、取材対象者の活動も書籍化されるなど、戦争体験が次世代に及ぼす影響についての関心も少しずつ高まってきたようであるが、著者はそうした視点の重要性に早くから気づいていた研究者の一人ではないかと思う。元捕虜たちの過酷な体験が戦後の夫婦関係や父子関係に深刻な影響を及ぼしていることを私が知ったのは、本書がまだ構想段階だったころの著者との私的な会話においてだった。戦争の影響は多くのひとが(というよりも私自身が)考える以上に時間的に長く続くものだということを思い知らされたのだ。

また90年代後半以降のこの社会で顕著になってきたこととして、侵略戦争や植民地支配の責任を追及することに対するバックラッシュをあげることができるが、その際に矢面に立たされたのが旧日本軍から被害をうけた人々の証言であった。本書の第6章は証言の否認や矮小化という“挑戦”に立ち向かっている。トラウマ記憶についての証言についてありがちな誤解を解いていくことはオーラル・ヒストリーについての正しい理解を促進するうえでも欠かせないが、証言者への二次加害を予防するためにも重要なことだ。

他にも印象的な箇所は多いが、著者による聞き取りを通じて元捕虜たちに生じる変化(各所で言及され第7章で主題的に扱われている)にはぜひ注目してもらいたいと思う。特に戦後補償問題が浮上して以降、この社会には戦争被害を訴える声を一定の枠(「金目当て」『いつまでも過去に拘る頑なさ」などなど)にはめて理解しようとする傾向が存在するが、本書を通じて私達は声をあげ続ける証言者たちの実存的な切実さを理解できるはずであるから。