2016年5月3日火曜日

kokubo 氏の“反論”について(2)

 この記事が書かれた経緯については「kokubo 氏の“反論”について(1)」を参照されたい。ここでは朴裕河氏がFacebookのポストで引用した kokubo 氏の主張をとりあげる。kokubo 氏のポストを直接閲覧できないのは残念であるが、朴裕河氏が自身の責任において『帝国の慰安婦』批判への反論として紹介したものであるから、引用された限りの主張について検討することにする。なお、反論の対象となっているのは当ブログの記事「歴史修正主義は何によってそう認定されるか」である。

 問題の記事で私が指摘したのは、「慰安婦問題を否定する人たちが、民間人が勝手に営業したと主張するのは、このような記憶が残っているからだろう」(『帝国の慰安婦』104ページ)と主張する際に、朴裕河氏が元日本軍兵の証言を恣意的につまみ食いしている、ということであった。ここでまず確認しておかねばならないのは、「民間人が勝手に営業した」という主張の源泉となり得る記憶は「民間人が勝手に営業している慰安所を見た」というものではなく、「民間人が勝手に営業している慰安所しか見たことがない」というものでなければならない、ということである。純民営の「慰安所」も軍が設置・運営する「慰安所」も共に知っているという人間が「民間人が勝手に営業した」と主張したとすれば、彼は「記憶が残っているから」そう主張したのではなく、自らの記憶に反してそう主張したことになるからである。問題の証言者はまさにどちらの慰安所も記憶しているのであるから、本来「慰安婦問題を否定する人たちが、民間人が勝手に営業したと主張するのは、このような記憶が残っているからだろう」という主張の根拠としては援用できないはずである。にもかかわらず、読者の目から「北部中国に軍の管理する慰安婦と慰安所ができたのは三月か四月ごろではなかったかと思います」という証言を隠してあたかも「民間人が勝手に営業している慰安所しか見たことがない」という証言者が『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』に登場するかのようにみせていることが問題なのである。 kokubo 氏は「つまりこの元兵士は「民間人が勝手に営業した慰安所」と「軍管理の慰安所」二種類の慰安所の記憶があるということ」としているが、「二種類の慰安所の記憶」では朴裕河氏の主張の根拠足り得ないのである。

 このような kokubo 氏の主張を朴裕河氏が肯定的にとりあげたのはまたしても示唆的なことと言わねばならない。『帝国の慰安婦』に対する批判の一つは、同書が元「慰安婦」被害者などの証言を文脈を無視して利用している、ということであった。『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』に実際にあたってみればわかることだが、この兵士は「二種類の慰安所の記憶」をひとまとまりのものとして証言している。取材を受けているのは戦後なのだから、当然といえば当然である。だが kokubo 氏はこの兵士の記憶から「民間人が勝手に営業した慰安所」についての記憶だけをピックアップして利用することを正当化している。「どうしてこの人は「ワンセンテンス」で物事を考えるのだろうか?」という問いは朴裕河氏と kokubo 氏自身にこそ向けられるべきであろう。



2016年5月2日月曜日

kokubo 氏の“反論”について(1)

 去る4月22日、朴裕河氏はツイッター及びFacebookにおいて、kokubo 氏が私に対して行った”反論”(後にみるように反論の体をなしていないので引用符でくくってある)を紹介した。朴裕河氏からの直接の反論ではないが、彼女は kokubo 氏の書いたものについて「その通りだと思った」とのことである。  朴裕河氏が紹介した kokubo 氏の”反論”は3つある。2つは氏が自身のブログで公表したものであり、残る1つはFacebookのポスト(「友達」限定公開なのか、私は閲覧できない)を朴裕河氏が自身のポストで転載したものである。ここではまず、2つのブログ記事について見てみることにしよう。

・「河を渡っている慰安婦の写真は「朝鮮人慰安婦」である〜能川元一氏に反論する」(2015年12月29日
・「この能川元一氏の『帝国の慰安婦』批判は最初で最大の間違いである。〜能川元一氏に反論する」(2016年1月26日)

いずれも反論の体をなしていない記事なのでこれまで無視してきたのだが、朴裕河氏が肯定的に紹介したとなればまた話は別である。朴裕河氏はこの論点について、もはや悪意のないミスであったことを主張できなくなったからである。
 なお“批判”の対象となっているのは私が『季刊 戦争責任研究』の第85号(以下『戦争責任研究』)に寄稿したもの(その後、三一書房刊の『「慰安婦」問題の現在』に改題のうえ再録された)であるが、関係する論点については当ブログの記事「「和服・日本髪の朝鮮人慰安婦の写真」とは?/『帝国の慰安婦』私的コメント(1)」でも同趣旨の指摘をしておいた。ここで問題となる2枚の写真のうち、千田夏光氏が「兵隊とともに行軍する朝鮮人らしい女性。頭の上にトランクをのせている姿は朝鮮女性がよくやるポーズである」と記述している写真を以下「渡江写真」、「占領直後とおぼしい風景の中に和服姿で乗り込む女性。中国人から蔑みの目で見られている日本髪の女性」と記述している写真を「和服写真」と呼ぶことにしたい。渡江写真は毎日新聞社刊の『每日グラフ』別冊「日本の戦歴」(1965年)の21ページ、写真集『日本の戦歴』(1967年)の117ページに、和服写真は同じくそれぞれ128-9ページ、114-5ページに掲載されたものである。


渡江写真


和服写真

 さてまず「河を渡っている慰安婦の写真は「朝鮮人慰安婦」である」についてであるが、kokubo 氏は私の主張のポイントを完全に取り違えている。問題は渡江写真の女性が朝鮮人「慰安婦」であるか否かではない。『帝国の慰安婦』が挙げた資料から女性たちを「朝鮮人」であると断定してよいか否か、である。この写真(渡江写真と和服写真の混同)をとりあげた理由を私は「『帝国の慰安婦』には、朴氏の主張に合致する場面では千田氏の記述を無批判に採用する一方、朴氏の主張に反する場合には千田氏の強い主張ですら具体的な根拠なしに無視、ないし否定する傾向」がみられるからだ、と述べておいた(『戦争責任研究』4ページ、『「慰安婦」問題の現在』114-115ページ)。千田氏が「朝鮮人らしい女性」(下線は引用者)としか記していないのに、『帝国の慰安婦』では「朝鮮人慰安婦」だと断定されてしまっている点をこそ、私は問題にしていたのだ。したがって、別の資料に依拠して渡江写真の女性が朝鮮人であることを論証したところで、拙稿への批判とはならないのである。
 そのうえ、渡江写真の女性が朝鮮人であるという kokubo 氏の“論証”もお粗末極まりない。氏は1992年に部落問題研究所から刊行された千田夏光氏と馬場鉄男氏の対談本、『従軍慰安婦 その支配と差別の構図』から「この写真を調べていると、たまたま腰までスカートをめくった二人の女性が、頭に荷物を乗せて川を渡っている写真があった。これ、何だと聞いたところ、これが『朝鮮ピー』(朝鮮人慰安婦)だというわけです。」という千田氏の発言を引用している(17ページ)。読者の方はすぐ気づかれたことだろうが、千田氏はいったい誰が「朝鮮ピーだ」と“教えて”くれたのかを明らかにしていない。『従軍慰安婦 その支配と差別の構図』全体を通してもやはり「朝鮮ピー」だと言ったのが誰であるかは明らかにされていない。つまり kokubo 氏が引用した千田氏の発言は「正体不明の誰かが、写真の女性たちを朝鮮人だと思った」ことの根拠にはなりえても、女性たちが実際に朝鮮人であるとする十分な根拠にはなりえないのである。
 この正体不明氏――おそらく千田氏より年長の毎日新聞関係者であろう、という程度の推測はできる――が、問題の写真を撮影したカメラマン本人や共に従軍していた記者など、女性たちの民族性を直接知り得た人物でないことはほぼ確実である。もしそのような情報源に千田氏が接触していたのなら、『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』の記述も「日本の戦歴」のキャプションも違ったものになりえたはずだからである。当時はまだ軍事動員された経験を持つ男性が多数職場にいた時代である。また、典型的な「慰安所」経営の実態として「日本人慰安婦は将校向け、朝鮮人慰安婦は兵士向け」という差別的な“分業”があったことについては複数の証言がある。とすれば、「慰安婦といえば朝鮮人」という認識をもった戦場体験者がいても不思議ではない。そのような人物が戦場の若い女性の写真を見て「朝鮮人慰安婦だ」と考えた……というのは合理的かつ蓋然性のある推測だろう。仮にこの推測を採用しないにしても、結局正体不明氏がなぜ「朝鮮ピー」だと判断したのかが不明である以上、上記引用から女性たちが実際に朝鮮人であったと結論することはできない。
 このような kokubo 氏の議論について朴裕河氏が「その通りだ」と思った、というのは示唆的であると言えよう。「朴氏の主張に合致する場面では千田氏の記述を無批判に採用する(……)傾向」についての私の指摘を改めて裏づけることになっているからだ。
 また kokubo 氏は西野瑠美子氏の『従軍慰安婦 元兵士たちの証言』(明石書店、1992年、なお同書では「西野留美子」名義)にみられる記述も渡江写真の女性たちが「朝鮮人慰安婦」だとする根拠としている。しかしながら、西野氏が依拠しているのは『每日グラフ』別冊の「日本の戦歴」である(口絵として用いられた渡江写真の出典からそのことは明らか)。撮影の日時や場所などは「日本の戦歴」のキャプションにある情報だし、「進撃する部隊を追い第一線に向かう」というのも同じくキャプションからの引用である(ただし原文では「向かう」は「むかった」)。同じ箇所で千田夏光氏の『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』(西野氏は『従軍慰安婦』として引用)にも言及があるから、同書の「兵隊とともに行軍する朝鮮人らしい女性。頭の上にトランクをのせている姿は朝鮮女性がよくやるポーズである」という記述も念頭にあったことだろう。要するに西野氏は千田氏と「日本の戦歴」に依拠して渡江写真の女性たちを「朝鮮人慰安婦」としたのであり、別の情報に依拠してそう判断したわけではない。したがって『従軍慰安婦 元兵士たちの証言』を引き合いに出すのはまったく無意味なことなのである。

 続いて「この能川元一氏の『帝国の慰安婦』批判は最初で最大の間違いである」について(なおこちらの記事でもほぼ同じことが繰り返されている)。千田夏光氏が「写真」について記述した文章をとりあげておいて、「写真」は関係ない、「言葉」に注目したのだ、などという釈明が通用すると本気で考えているのであろうか? 百歩譲ってこの釈明を受け容れたとしても、千田氏の「言葉」において、「兵隊とともに行軍する朝鮮人らしい女性。頭の上にトランクをのせている姿は朝鮮女性がよくやるポーズである」と「占領直後とおぼしい風景の中に和服姿で乗り込む女性。中国人から蔑みの目で見られている日本髪の女性」とは別の女性二人組、すなわち前者は渡江写真の女性たちを、後者は和服写真の女性たちを、それぞれ記述したものである。この「言葉」から「なぜ朝鮮人慰安婦が、『日本髪』の『和服姿』で日本軍の『占領直後』の中国にいたのか。そしてなぜ『中国人から蔑みの目で見られてい』たのか」という問いを引き出すことはできない。千田氏の「言葉」がいうところの「占領直後とおぼしい風景の中に和服姿で乗り込む女性。中国人から蔑みの目で見られている日本髪の女性」は、(少なくとも千田氏の認識では)「朝鮮人慰安婦」ではないからだ。
 要するに kokubo 氏は「二枚の写真についての記述を一枚の写真についてのものと誤読した」という批判をかわすために、「千田氏の文章がなにを意味するかは無視して、ただその文字面だけを利用しました」と言っているようなものである。もしそうなら「誤読」とは比べものにならないほど悪質な行為ということになろう。