2023年8月8日火曜日

月刊誌『WiLL』の自己剽窃

 「LGBT理解増進法」が可決されたのをうけて、このところ右派論壇誌は「LGBT特需」に湧いている。セクシュアリティやジェンダーといった話題についてかねてから積極的に発言していた論者は右派論壇では限られているので、同じような名前を何度も目にする羽目になる。だから月刊誌『WiLL』(ワック)の2023年1号に小林ゆみ、saya、竹内久美子、橋本琴絵による座談会「LGBT狂想曲 常識を取り戻せ」が掲載された3か月後の4月号で小林ゆみと竹内久美子による対談「活動家の目的は家族破壊と国家分断」が掲載されていることに気づいたときにも、特になにも思わなかった。その内容をチェックするまでは……。

4月号の対談は1月号の座談の使い回しである。それも単に「同じ話題を繰り返した」という程度のものではなく、1月号の座談のうち saya と橋本琴絵の発言を竹内久美子による発言として編集し直したうえで、小林と竹内による対談に仕立て直したに過ぎない(些細な文言の変更を別として)。1月号座談は10ページ、4月号対談は8ページであるが、1月号座談にある「ポリコレ」批判と「フランクフルト学派」陰謀論を削るとほぼ4月号対談と重なる。4月号にしかない記述はあわせて約1ページほどだ。

私はかねてから右派論壇の特徴として「新奇性という価値に拘束されない」ことを指摘してきた(『海を渡る「慰安婦」問題』所収の拙稿など)。同じ論者が同じ話題について同じような議論を繰り返すことは忌避されないのである。ジャーナリズムやアカデミズムの倫理には抵触しかねないこうした慣行も、政治的なキャンペーンとしては有効なものたりうる。しかしここまであからさまな自己剽窃を行うとは驚いた。寄稿者全員に了解をとったうえでのことであれば法的な権利の面では問題化することはないのかもしれないが、4月号の対談に読者に対する断り書きは付されていない(なお4月号から現在発売中の9月号までの編集後記を確認したが、この点についてはまったく言及されていない)。ビジネス倫理の観点からみてもさすがに看過できない自己剽窃ではないだろうか。

以下、画像ファイルで両記事の類似性を証明する。もちろん著作権に配慮するためページの大半はマスクしてある。グレーでマスクしてあるのが両号で(細かな文言の違いを除けば)同一内容の箇所。黒でマスクしてあるのが使いまわしされていない箇所。いずれも発言者を特定しまた異同の見当がつくよう、一部だけマスクを外してある。その他、異同の検証に関係のない写真には白のマスクを施した。

『WiLL』2023年1月号より


『WiLL』2023年4月号より














2023年7月30日日曜日

中尾知代『戦争トラウマ記憶のオーラルヒストリー』

 -中尾知代『戦争トラウマ記憶のオーラルヒストリー 第二次大戦連合軍元捕虜とその家族』、日本評論社、2022年

第二次大戦に関するトラウマ的な体験の聞き取りを長年にわたって続けてきた著者による(ひとまずの)集大成的著作。聞き取り対象者の中心は日本軍の捕虜となった元イギリス軍将兵だが、国籍はその他オランダ、アメリカ、オーストラリアなどに、また日本軍との関わりでは民間抑留者や元捕虜の家族にも及んでいる。

アジア・太平洋戦争を批判的にとらえ直す市民運動が盛んだった時期には日本軍の捕虜となった連合国将兵の回想を翻訳・出版したり日本で証言集会を開くといったことも行われていたが、やはり戦後の日本においてアジア・太平洋戦争について語られてきたことのうち、連合国将兵の捕虜体験についての語りが占める割合非常に僅かだったと言えるだろう。その理由としてはまず第一に、日本語の言論空間が海外から孤立していた時期にBC級戦犯裁判に関する日本側関係者の言い分が一方的に流布してしまったことがあるだろう。また侵略戦争や植民地支配に対して自覚的な市民運動にとっては、アジアの戦争被害の声を聞くことがまず優先されるべき課題であった、ということもあると思われる。戦後補償問題がある程度の認知を得るようになると今度は「和解の成功」を喧伝する言説が元捕虜たちの苦しみを覆い隠すようになってしまう(この点については本書の第7章でも触れられているが、著者の前著『日本人はなぜ謝りつづけるのか』にも詳しい)。

本書の全体としての構成は版元サイトで閲覧できる目次で確認できるのでそちらを参照されたい。著者が聞き取ってきた元捕虜・抑留者たちの経験をその家族との関係において(第3章、4章)、トラウマ記憶に関する学術的な知見との関係において(第5章)、またオーラルヒストリーという営みとの関係において(第6章、7章)分析しようとする試みのうち、私がまず関心を引かれたのは元捕虜たちの体験がその妻や子どもたちに及ぼした関係、という視点だ。近年、復員後に“ひとが変わった”ようになった父との関係に苦しんだ体験をNHKが番組化し、取材対象者の活動も書籍化されるなど、戦争体験が次世代に及ぼす影響についての関心も少しずつ高まってきたようであるが、著者はそうした視点の重要性に早くから気づいていた研究者の一人ではないかと思う。元捕虜たちの過酷な体験が戦後の夫婦関係や父子関係に深刻な影響を及ぼしていることを私が知ったのは、本書がまだ構想段階だったころの著者との私的な会話においてだった。戦争の影響は多くのひとが(というよりも私自身が)考える以上に時間的に長く続くものだということを思い知らされたのだ。

また90年代後半以降のこの社会で顕著になってきたこととして、侵略戦争や植民地支配の責任を追及することに対するバックラッシュをあげることができるが、その際に矢面に立たされたのが旧日本軍から被害をうけた人々の証言であった。本書の第6章は証言の否認や矮小化という“挑戦”に立ち向かっている。トラウマ記憶についての証言についてありがちな誤解を解いていくことはオーラル・ヒストリーについての正しい理解を促進するうえでも欠かせないが、証言者への二次加害を予防するためにも重要なことだ。

他にも印象的な箇所は多いが、著者による聞き取りを通じて元捕虜たちに生じる変化(各所で言及され第7章で主題的に扱われている)にはぜひ注目してもらいたいと思う。特に戦後補償問題が浮上して以降、この社会には戦争被害を訴える声を一定の枠(「金目当て」『いつまでも過去に拘る頑なさ」などなど)にはめて理解しようとする傾向が存在するが、本書を通じて私達は声をあげ続ける証言者たちの実存的な切実さを理解できるはずであるから。

2023年7月22日土曜日

森万佑子『韓国併合』

 -森万佑子『韓国併合―大韓帝国の成立から崩壊まで』、中公新書、2023年

著者の専門は朝鮮半島の地域研究。従来日本では歴史学や政治学の文脈でとりあげられることが多かった「日韓併合」を、特に高宗の視点を重視しながら「大韓帝国が成立して崩壊していく過程」として描く試み。近代の日朝関係を朝鮮・大韓帝国の視点を中心にして描いた一般向けの書籍がなかったわけではなく、例えば岩波新書ならば超景達『近代朝鮮と日本』などがあるが、「日韓併合」というテーマに特化したものではない。このテーマに関する文献を幅広く読んできたわけでもないので「管見の限り」にもほどがあるけれども、新鮮な読書体験であった。特に朝鮮・大韓帝国側の史料がもつ特徴についての指摘は勉強になった。

「日韓併合」について語る際に避けることができないのはその法的な評価である。「徴用工」問題ひとつをとってもその根っこはそこにあると言ってよい。本書では(併合を「正当」とする立場は論外として)併合の合法性をめぐる代表的な見解を紹介したうえで、著者自身の結論は「主な対立の焦点が国際法であるため国際法が専門ではない筆者が、法学的な観点から結論を述べることは避けたい」(「終章」)としている。ただし否定し難い「史実」として一に「多くの朝鮮人が日本の支配に合意せず、歓迎しなかった」ことを、二に「日本人が朝鮮人から統治に対する「合意」や「正当性」を無理やりにでも得ようとしたこと」の二つを「終章」の結びで述べている。「併合」が当時の朝鮮人の臨んだことであるという歴史修正主義者の主張は否定されていると言えよう。

ただそれだけに驚いた記述が2つほどある(いずれも「終章」の「植民地の請求権問題」という見出しが付された節)。一つは河野談話やアジア女性基金を評して日本政府が「真摯に対応」(ルビを省略)したという記述。まず河野談話について言えば、その中に含まれる「歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ」るという「決意」がなし崩し的に反古にされ、第二次安倍政権下ではむしろ攻撃の対象となってきたという明らかな事実を無視している。アジア女性基金についても、私はこの基金の設立や運営にあたった人々の主観的な誠意を疑うものではないけれども(ただし大沼保昭氏の事後的な正当化は極めて欺瞞的であると評価せざるを得ない)、当時を知る者にとってこの基金が右派との政治的妥協の産物であることは自明だった。著者も「韓国国民からの支持が得られなかった」と認めている2015年の「慰安婦合意」(著者の表現)の失敗も、アジア女性基金の問題点を否認し続けた結果ではなかっただろうか?

そしてもう一つが次の一節だ。

 民主化以後の韓国では、国民の合意が得られない国家間の取り決めは意味を持たない。そして、韓国の国民が持つ歴史認識は道徳に価値が置かれている。韓国の場合は「歴史(認識)とはこうあるべき」という道徳的価値観から史実を見ていると言える。韓国史は「우리역사(ウリヨクサ)」(われわれの歴史)と呼ばれる韓国人の歴史なのである。

 一方、日本は歴史には複数の見方があるとの前提で、自国史も客観的に、淡々と史実を教えようとする。両国の歴史教育には明らかに距離がある。   

(原文のルビを( )書きに改めた)

 ここには複数の問題点がある。といっても、実はこのような言説は2015年の日韓「合意」や「徴用工」問題の外交問題化以降、日本のメディアで「韓国専門家」によってひろく流布されてきたものである(「あとがき」でそうした韓国専門家の一人に謝辞が送られている)。したがって以下はひとり本書の著者についてのみあてはまることではない。

まず第一に、このような認識は日本政府が国際条約に基づく国際人権機関等からの要求のいくつかを無視し続けているという厳然たる事実を無視している。例えば高校無償化から朝鮮学校を排除するのは人種差別撤廃条約に反しているのだが、「国民の理解が得られない」という理由で排除は続けられたままである。なぜこうした事態を「国民の合意が得られない国家間の取り決めは意味を持たない」と評価しないのだろうか? ちなみに、SNSで朝鮮学校への無償化適用に反対する投稿を見かけると私は時折「国民情緒法!」というコメントをつけることがあるが、これはもちろん2015年の日韓「合意」以降朝鮮半島地域研究者などが韓国政府の行動を「分析」する際に用いてきたフレーズである。

第二が「歴史教育」についての認識である。公教育で行われる歴史教育が圧倒的に「われわれの歴史=日本人の歴史」であるのは日本だって同様である。第二次安倍政権以降とりわけ、歴史教育に「道徳的価値観」を反映させようとする志向が露骨になったことも私たちは見てきたはずである。

たしかに「歴史には複数の見方がある」という口上はこの社会で広く用いられている。しかしそれはもっぱら他者の歴史認識に由来する要求を拒絶する口実に用いられているのではないか? 「歴史には複数の見方がある。つまり日本には日本の歴史観があって当然だ」というわけだ。歴史認識の普遍性を否定し複数性を引き受けるとはどういうことなのかを突き詰めて考えることなしに、安易な相対主義に流れている(しかもその結果として自国中心主義的歴史認識が温存される)のが日本の現状なのではないだろうか。