2015年11月8日日曜日

「慰安婦」問題否認論と痩せ細った「自由」

南京大虐殺否定論と日本軍「慰安婦」問題否認論との間には共通点が多々ありますが、かなり重要だと思われる違いもあります。後者の場合、「まさに日本軍『慰安所』制度が性奴隷制であった」ことを示す文書を得意げに持ち出して旧日本軍を弁護しようとする現象が非常にポピュラーなのですが、前者についてそういうケースはあまり記憶にありません。日本軍「慰安婦」問題の場合、ある事実の存否をめぐる争い以上に存否については争いのない事実についての理解の違いが焦点となることが多いということです。

例えば否認派は「廃業を許可する規定があった」とか「外出を許可されたとこの文書に書いてある」などと主張します。廃業や外出に「許可」が必要であったという事実こそ、軍「慰安所」制度が性奴隷制とされる所以なのですが。その点を指摘されると「働かなければ食っていけないのは我々だって同じだ」とか「会社員だって勤務中に勝手に出かけることはできない」とか「『慰安婦』に居住の自由がなかったというなら、転勤のあるサラリーマンだって同じじゃないか」などと彼らは“反論”します。匿名のネット右翼がこうした主張をするだけでなく、吉見義明教授に損害賠償請求訴訟を起こされた桜内文城氏(元霞が関の官僚にして元国会議員)が法廷で同じような主張をしているのですから、ただの「たわごと」として片付けることもできません。

むしろ日本軍「慰安婦」問題否認論者の認識は、この社会で蔓延している「自由」についての貧しい理解と通底していると考えるべき理由があります。例えばサーチエンジンで「有給 理由」をキーワードとして検索してみると、「有給休暇を所得するにあたって、会社に申し立ててよい理由とはどのようなものか?」に関連したコンテンツが多数見つかります。しかもそのうちの少なからぬ割合を、「有給を取得するにあたっては、社会人として妥当な理由を申し立てるべきである」という認識に立つものが占めているのです。

また在特会などいわゆる「行動する保守」諸団体の街宣に際して、彼らが抗議者に対し「私たちは(街宣の)許可を取っている!」と叫ぶのもおなじみの光景です。

これらの事例は、有給休暇の取得や政治的見解の表明の「自由」が、勤務先や警察の「許可」に従属していることを当然視する認識が、この社会では決してまれなものではないことを示しています。有給休暇の取得にあたっては会社が納得する理由がなければならないと考える人が、「外出を許可されていたのなら外出の自由はあったんじゃないか」と考えるのは不思議ではないのでしょう。

もしそうだとすれば、日本軍「慰安所」制度の問題点をこの社会が正しく理解することは、現代を生きる私たち自身がまともな自由を取り戻すことにもつながるのであり、逆に言えば「私たちがいかに自由でないか」への気づきなくして日本軍「慰安婦」問題否認論の克服もない、ということになるのではないでしょうか。