2018年4月30日月曜日

『右派はなぜ家族に介入したがるのか』刊行&公開合評会


中里見博・能川元一・打越さく良・立石直子・笹沼弘志・清末愛砂『右派はなぜ家族に介入したがるのか 憲法24条と9条』、大月書店、2018年5月
「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」を掲げる24条は、9条と並んで改憲のターゲットとされてきた。――それはなぜか?「家族」を統制しようとする右派の狙いを読み解き、24条と9条を柱とする「非暴力平和主義」を対置する。

目次序章 なぜいま憲法24条と9条か 中里見博第1章 右派はなぜ24条改憲を狙うのか?――「家族」論から読み解く 能川元一第2章 家庭教育支援法の何が問題なのか?――24条を踏みにじる国家介入 打越さく良 第3章 「家」から憲法24条下の家族へ 立石直子第4章 日本社会を蝕む貧困・改憲と家族――24条「個人の尊厳」の底力 笹沼弘志第5章 非暴力平和主義の両輪――24条と9条 清末愛砂第6章 非暴力積極平和としての憲法の平和主義 中里見博
 拙稿は一昨年の「日本会議本」ブームの際に注目を浴びなかった論者を中心に、「家族」「24条」「育児」などについて積極的に発言している右派の論者をとりあげ、24条改憲論の背後にある家族イデオロギーの一端を明らかにしようとしたものです。

 刊行直後の6月1日に同書の公開合評会を予定しております。評者として君島東彦氏(立命館大学)にご登壇いただく予定です。特にご予約などしていただく必要はなく、どなたでもご参加いただけます。

日時:2018年6月1日(金) 18:30〜20:30
場所:文京シビックセンター3階南 障害者会館 会議室








2018年4月8日日曜日

D・リップシュタット『否定と肯定』


デボラ・E・リップシュタット『否定と肯定 ホロコーストの真実をめぐる闘い』、ハーパーBOOKS、2017年  1996年、アメリカの歴史学者デボラ・リップシュタットは彼女の著作 Denying the Holocaust: the growing assault on truth and memory (1993) のイギリス版を刊行した出版社ペンギン・ブックスとともに、イギリス人著述家D・アーヴィングから民事訴訟を起こされる。ホロコースト否定論を扱った同書(1995年に邦訳が『ホロコーストの真実 大量虐殺否定者たちの嘘ともくろみ〈上〉〈下〉』として恒友出版から刊行されている)のなかでアーヴィングを「否定論者」として扱ったことが名誉毀損にあたるという理由だ。  本書はこの訴訟の準備段階からアーヴィングの敗訴で決着するまでを、リップシュタットの視点から描いたもの。2005年に History on Trial (裁かれる歴史)のタイトルで刊行され、その後この裁判を題材とした映画の公開にあわせて改題(Denial: Holocaust History on Trial)された。映画は日本でも、本書が刊行されたのと同じ2017年に公開されている。  リップシュタットは多くの人々からの支援を得て裁判を闘うことができたが、その一方で裁判に対する奇妙な反応に戸惑わされることになる。リップシュタットがアーヴィングに勝訴することで、歴史に関して通説とは異なる主張を行う自由が萎縮するのではないか、といった見方をする人々が現れたからだ。実際にはアーヴィングがリップシュタットを訴え、アーヴィングに対する彼女の批判を封じようとしたにもかかわらず、だ。  本書から私たちが学ぶことのできるもっとも重要な教訓の一つがここにある。ホロコースト否定論は決して歴史についての“さまざまな見解の一つ”なのではない。なぜなら否定論は史料を故意に歪めて解釈する、都合の悪い史料を無視する、といった不当な手法に立脚しているからだ。裁判でリップシュタット側の証人となった歴史学者のリチャード・エヴァンズが証言したように、否定論者は「政治的な理由から歴史を歪曲」しているのであり、歴史学のふりをしてはいるものの実際には人種差別的な動機に基づく政治活動なのだ。  “どんなことでもタブーとせずに議論すべきだ”という訴えはもっともなものに思える。否定論者は私たちのそうした良識につけ込み、“学者たちが言っているのとは違う真実があるかもしれない”という疑惑を植え付けようとする。だが否定論者たちの土俵にあがって「ホロコーストの真実」を“再検証”しようとすることは、生存者や犠牲者の遺族を深く傷つける行為であることを知っておかねばならない。リップシュタット、ペンギン・ブックスの弁護チームが生存者を証人として呼ばなかった――法廷での証言を望む生存者はいたにもかかわらず――理由の一つは、アーヴィングに生存者を侮辱する機会を与えないためだった。  欧米社会ではホロコースト否定論のような歴史修正主義はあくまで周辺的な存在であるのに対し、日本社会ではこの二〇年間歴史修正主義が存在感を増し続けている、という事情の違いはある。しかしいまの日本社会を客観視するための鏡として、本書が有益であることは間違いない。