2015年11月8日日曜日

「慰安婦」問題否認論と痩せ細った「自由」

南京大虐殺否定論と日本軍「慰安婦」問題否認論との間には共通点が多々ありますが、かなり重要だと思われる違いもあります。後者の場合、「まさに日本軍『慰安所』制度が性奴隷制であった」ことを示す文書を得意げに持ち出して旧日本軍を弁護しようとする現象が非常にポピュラーなのですが、前者についてそういうケースはあまり記憶にありません。日本軍「慰安婦」問題の場合、ある事実の存否をめぐる争い以上に存否については争いのない事実についての理解の違いが焦点となることが多いということです。

例えば否認派は「廃業を許可する規定があった」とか「外出を許可されたとこの文書に書いてある」などと主張します。廃業や外出に「許可」が必要であったという事実こそ、軍「慰安所」制度が性奴隷制とされる所以なのですが。その点を指摘されると「働かなければ食っていけないのは我々だって同じだ」とか「会社員だって勤務中に勝手に出かけることはできない」とか「『慰安婦』に居住の自由がなかったというなら、転勤のあるサラリーマンだって同じじゃないか」などと彼らは“反論”します。匿名のネット右翼がこうした主張をするだけでなく、吉見義明教授に損害賠償請求訴訟を起こされた桜内文城氏(元霞が関の官僚にして元国会議員)が法廷で同じような主張をしているのですから、ただの「たわごと」として片付けることもできません。

むしろ日本軍「慰安婦」問題否認論者の認識は、この社会で蔓延している「自由」についての貧しい理解と通底していると考えるべき理由があります。例えばサーチエンジンで「有給 理由」をキーワードとして検索してみると、「有給休暇を所得するにあたって、会社に申し立ててよい理由とはどのようなものか?」に関連したコンテンツが多数見つかります。しかもそのうちの少なからぬ割合を、「有給を取得するにあたっては、社会人として妥当な理由を申し立てるべきである」という認識に立つものが占めているのです。

また在特会などいわゆる「行動する保守」諸団体の街宣に際して、彼らが抗議者に対し「私たちは(街宣の)許可を取っている!」と叫ぶのもおなじみの光景です。

これらの事例は、有給休暇の取得や政治的見解の表明の「自由」が、勤務先や警察の「許可」に従属していることを当然視する認識が、この社会では決してまれなものではないことを示しています。有給休暇の取得にあたっては会社が納得する理由がなければならないと考える人が、「外出を許可されていたのなら外出の自由はあったんじゃないか」と考えるのは不思議ではないのでしょう。

もしそうだとすれば、日本軍「慰安所」制度の問題点をこの社会が正しく理解することは、現代を生きる私たち自身がまともな自由を取り戻すことにもつながるのであり、逆に言えば「私たちがいかに自由でないか」への気づきなくして日本軍「慰安婦」問題否認論の克服もない、ということになるのではないでしょうか。

2015年10月26日月曜日

見開き図版、綴じ(ノド)部分について

 『憎悪の広告 右派系オピニオン誌「愛国」「嫌中・嫌韓」の系譜』(能川元一+早川タダノリ、合同出版、2015年9月)に掲載された図版のうち、見開きで掲載されているため綴じ(ノド)部分が判読しにくくなっているものが少なからずあります。以下、隠れている綴じ部分のみを掲載いたします。
図1-1
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図1-6
図1-9、1-10
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図9-9














2015年9月13日日曜日

『憎悪の広告』図版関連データ(非公式版)

 『憎悪の広告 右派系オピニオン誌「愛国」「嫌中・嫌韓」の系譜』(能川元一+早川タダノリ、合同出版、2015年9月)に掲載された図版について非公式に集計したデータです。
・総図版数=146点 うち複数の章で重複して用いられているものが5点あるので実質は141点。


・『正論』の広告が59点、『SAPIO』の広告が41点、『諸君!』の広告が38点、その他が3点。
 臨時増刊号を除外して計算すると、『正論』と『諸君!』については調査対象期間(ただし『諸君!』は2009年に廃刊)の広告の2割超をカバー。『SAPIO』は2012年11月号以前は月2回刊だったため母数が大きく、1割程度の収録率。

・1994年〜1999年のものが26点、2000年〜2004年が40点、2005年〜2009年が38点、2010年以降が37点。

・広告にレイアウトされた肖像写真の数。(  )内は寄稿者として登場している号の数
 安倍晋三=30(11)
 石原慎太郎=24(19)
 櫻井よしこ=35(35)

・広告中で「朝日」ないし「朝日新聞」への言及があるのは34点。

2015年9月12日土曜日

『憎悪の広告』正誤表(15年9月10日時点)

 『憎悪の広告 右派系オピニオン誌「愛国」「嫌中・嫌韓」の系譜』(能川元一+早川タダノリ、合同出版、2015年9月)の初版1刷に残っていた誤植の正誤表です。お買いあげいただいた方々にお詫びいたします。(遺憾ながら)さらに発見した場合にはこの記事に追記してまいります。
・106ページ、図8-3へのコメント  誤:「だから日本が好きだ」 正:「だから、日本が好きだ」
 ・135ページ、図10-2へのコメント   誤:「阿南大使よ、」 正:「阿南大使、」
 ・170ページ本文下段   誤:国際人権委 正:国連人権委
 ・182181ページ本文(10月29日:読者の方からのご指摘により訂正)  誤:韓国と河野談話に転化 正:韓国と河野談話に転嫁
・199ページ、注(2)   誤:吉田裕『日本人の戦争観…… 正:吉田裕、『日本人の戦争観……



2015年8月22日土曜日

『憎悪の広告』(合同出版)、まもなく刊行です

『神国日本のトンデモ決戦生活』(合同出版/ちくま文庫)等の著書がある早川タダノリさんとの共著、『憎悪の広告−−右派系オピニオン誌 「愛国」「嫌中・嫌韓」の系譜』が合同出版より9月上旬に刊行されることとなりました。
http://www.godo-shuppan.co.jp/products/detail.php?product_id=481
全208ページで141点の図版(うち139点が右派論壇誌の新聞広告)を掲載、広告に踊るコピーを通して右派論壇の20年史を描き出そうとする試みです。
本に盛り込めなかった情報などは当ブログやツイッターなどでおいおい補足させていただく予定です。

2015年7月4日土曜日

「未来のための歴史パネル展」プロジェクトについて

今、日本では過去の侵略や加害の歴史を軽視したり、なかったことにしたりしようとする、歴史修正主義の動きがさかんになっています。テレビ、書籍、新聞、雑誌といったメディアでも、政治の場でも、過去の歴史を都合よく解釈し「日本はつねに正しかったのに、不当に攻撃されている」とする主張がよく見られます。市民会館などの公共施設でこうした意見を広めるパネル展を多くおこなっている団体もあります。こうした動きはアジアの国々や人々や、外国とのつながりを持つ、日本で暮らす人々への敵意や憎悪を煽ったり、差別と偏見を強めたりします。  私たちは、こうした状況を見過ごすことはできない、と決心しました。私たちは、人が差別されたり追放されたりする社会を望みません。人と人、国と国が対立し争い合う未来を望みません。未来は、過去の歴史をきちんと認識することによってしか開けません。多数派の人々にとって心地のよい物語だけが語られる社会になってはならないと考えます。  すべての人に開かれた歴史を知り、多くの人たちと共有するために、まず日本と韓国・朝鮮の近代史を考えるパネルを作りたいと思います。2015年の夏までに、専門家の助言も得て40枚のパネルを作り、8月を皮切りに、各地で展示をする予定です。完成したパネルを無料でお貸しし、展示の輪を広げたいと思います。できるだけ軽いパネルにして、送料を安くする工夫も考えています。  このプロジェクトの目標は日本に暮らす様々な人々と、東アジアの国々に暮らす様々な人々と、ともに歴史に向き合い、お互いの未来を考えていく場を作ることです。息の長い活動にしてゆきたいと思っています。皆様のご指導、ご協力、ご支援をよろしくお願い致します。 パネル制作費の寄付を募っています。こちらに案内記事がありますので、ごらんください。http://mirepa.tumblr.com/post/122771668626

2015年5月3日日曜日

『帝国の慰安婦』における植民地/占領地の二分法について/『帝国の慰安婦』私的コメント(4)

1. 『帝国の慰安婦』における「植民地/占領地」図式  日本軍「慰安婦」とされた女性たちの境遇が多様であったこと、その多様性をもたらす要因の一つが女性の国籍およびエスニィシティであったことは先行研究においても指摘されてきたことである。その限りでは、「植民地出身の慰安婦」と「占領地出身の慰安婦」の区別そのものは目新しいものではない。『帝国の慰安婦』の特徴は植民地/占領地という区別を強調することにより、占領地出身の「慰安婦」は「厳密な意味では『慰安婦』とは言えない」(45ページ)とまで主張するところにある。  では植民地出身の(というより朝鮮人の)「慰安婦」と占領地出身の「慰安婦」の違いとは何か? 『帝国の慰安婦』によれば、その違いは「そこで朝鮮人は『日本人』でもあった」(57ページ)こと、他民族の「慰安婦」とは異なり「〈故郷〉の役割」(45ページ)や「女房」(71ページ)としての役割、「精神的『慰安』者としての役割」(77ページ)、「〈代替日本人〉」の役割を期待されまた果たすことができ、日本人兵士との間に「『同じ日本人』としての〈同志的関係〉」(83ページ)を持っていたことだ、とされている。  朴裕河氏のこのような主張を支えているのが「〈自発の自己強制〉」(60ページ)、強制的な協力(144ページ)、といった概念である。すなわち、「構造的に誰かが国家による国民動員の〈協力者〉になるほかなかった状況こそが、〈植民地という事態〉だった」(49-50ページ)のであり、それゆえに植民地出身の「慰安婦」と占領地出身の「慰安婦」とは峻別されねばならない、というのである。 2. 「植民地/占領地」図式の観念性  このような図式の問題点の一つは、それがあまりにも観念的であるという点にある。『帝国の慰安婦』を一読すれば明らかなことだが、「慰安婦」たちの体験の「多様性」を強調する同書は同じ「植民地」である台湾の元「慰安婦」の「声」にも、また占領地の「慰安婦」として朝鮮人「慰安婦」と対照をなすはずの中国・フィリピン・インドネシア等の被害者たちの「声」にも、ほとんど関心を払っていない。普通に考えれば、『帝国の慰安婦』の中心的なテーゼの妥当性を確証するには、他地域出身の「慰安婦」の体験との比較対照が不可欠なはずである。植民地/占領地の峻別に基づく同書の主張は、朝鮮半島よりも日本の植民地としての歴史が長い台湾人「慰安婦」については少なくとも朝鮮人「慰安婦」と同等程度に妥当しなければならないはずである。また、著者が主張するような植民地出身の「慰安婦」の特異性が実際に認められるのかどうかは、占領地から動員された「慰安婦」の体験との違いに基づいて判断されねばならないはずである。しかし同書では植民地の「慰安婦」と占領地の「慰安婦」との違いはいわば自明の前提とされており、著者が朝鮮人元「慰安婦」の証言集や日本人作家の著作から拾い上げた「声」は直ちに朝鮮人慰安婦の経験の特異性を示すものとされてしまっている。  その結果として、「慰安婦」の体験の多様性を強調しているはずの同書は占領地の「慰安婦」たちの体験については非常に単純化されたイメージを提示することになってしまっている。そもそも“協力を強制される”のは植民地に固有のことではなく、占領地においても生じることである。「満洲」国や汪兆銘政権のような日本軍の傀儡政権下で暮らしていた人々は、なるほど朝鮮人や台湾人のように「日本人」とされることこそなかったものの、日本の同盟国の住民にはされていたのであり、「皇民化教育」に対応するものとして「五族共和」や「大東亜共栄圏」といったプロパガンダによる精神的な動員の対象にもされていたのである。果たして著者や『帝国の慰安婦』の賞賛者たちは「漢奸」という言葉を聞いたことがないのだろうか? 日本軍の燼滅掃討作戦(三光作戦)の対象となった華北地域の元「慰安婦」被害者ですら、戦後に「対日協力者」扱いされることがあったのは、支援者や研究者にとってはよく知られた話である。  もちろん、植民地と占領地の共通点を踏まえてもなお両者の間には“強制された自発性”の様態や程度に違いはあると主張することは可能であろうが、そうした主張の根拠を示すための作業は同書においては一切なされていない。それでいて「娘子軍〔=朝鮮人「慰安婦」〕、従軍慰安婦こそがもっとも悲惨な体験をしたことは忘れられるべきではない」(141ページ)などと断じるのは、他地域の「慰安婦」被害者に対する侮辱ではないのだろうか?  植民地/占領地という図式の(悪い意味での)観念性は、「ホロコーストには朝鮮人慰安婦が持つ矛盾−−すなわち被害者で協力者という二重の構造は、すくなくとも一般的にはない」(156ページ)という、かなり乱暴な主張にも反映している。書評において朴裕河氏を「一部のユダヤ人によるナチス協力にさえ言及したハンナ・アーレント」になぞらえた政治学者は、その朴氏本人がユダヤ人評議会の対独協力(あるいは「ゾンダーコマンド」の存在)など念頭に置いていないらしいことを、どう考えているのだろうか? 3. 「植民地の慰安婦」概念そのものの混乱  さらに、『帝国の慰安婦』における「植民地の慰安婦」概念には次に述べるような混乱がみうけられ、著者が朝鮮半島出身の「慰安婦」という存在について整合的な理解を持っているのかどうかすら疑われる。
 例えば著者は朝鮮人「慰安婦」の特徴として「日本語の理解度が高」かったことを挙げている(138ページ)。しかし「挺身隊」と「慰安婦」との違いを述べる際には、「挺身隊に動員された若い人は学校教育システムの中にいた者たち」(54ページ)だったのに対して「現実に現れている『慰安婦』の多くが、貧困による無学者か、低レベルの教育しか受けなかった人たちである」(53-54ページ)とされているのである(149ページも参照)。1943年末の段階で日本語能力が「悄々〔=少々〕解しうる」レベルだった朝鮮人が9.9%、「普通会話に差支なき」レベルであった朝鮮人が12.3%であった(趙景達、『植民地朝鮮と日本』、岩波新書、189ページ)ことを考えるなら、「多くが、貧困による無学者か、低レベルの教育しか受けなかった」朝鮮人「慰安婦」たち一般にそのような言語的アドバンテージがどの程度あったのか、はなはだ疑問と言わねばならない。  さらに、著者は「朝鮮人慰安婦」という存在を生み出した原因について「朝鮮が植民地化したということこそがもっとも大きな原因」(138ページ)だと言う一方で、「朝鮮人女性が多かったのは確かでも、そのことが宗主国日本が意識して植民地の女性をターゲットにして動員した、ということになるのではない」(137ページ)、「つまり、植民地だったことが、最初から朝鮮人女性が慰安婦の中に多かった理由だったのではない」(同所)、とも主張している。「内地という〈中心〉を支える日本のローカル地域になり、改善されることのなかった貧困こそが、戦争遂行のための安い労働力を提供する構造を作ったのである」(138ページ)、とも。さらに「家父長制と国家主義と植民地主義」が「朝鮮人慰安婦」を生み出したとしている箇所もある(34ページ、また38、66ページも参照)。植民地主義、構造的貧困、家父長制、国家主義……いずれも日本軍「慰安婦」の存在を考えるうえで重要な論点であるのは確かだが、構造的貧困や家父長制などは植民地朝鮮に固有の問題ではない。これだけ論旨が混乱していると果たして「朝鮮人慰安婦」にどれほどの固有性があると言えるのか、読者としては困惑するしかあるまい。 4. 「帝国」概念の混乱  「植民地」と対をなす「帝国」の概念もまた首尾一貫して用いられているとは言い難い。例えば次の一節をご覧いただきたい。
 「慰安婦」という存在は帝国主義(近代化)とともに組織化されたが、帝国崩壊後にもアジアで「慰安婦」システムが続いたのはすぐに本格化した冷戦体制のためだった。一九六五年の日韓協定が個人の被害が十分に考慮されないまま結ばれたのも、冷戦体制下にいたためだったことを考えると、近現代の慰安婦たちは帝国主義に動員され、冷戦維持に利用され、しかも冷戦のために補償してもらえなかったことになる。そしてアメリカの軍基地体制を新帝国体制と呼べるなら、いまなお世界の覇権を目指す帝国に女たちは利用されていると言わねばならない。(295ページ)
これは在韓米軍基地周辺、いわゆる「基地村」の売買春問題について述べた部分の一節である。植民地の「慰安婦」と占領地の「慰安婦」の区別にあれほどこだわった著者は、ここでは1937年以降本格的に制度化された日本軍「慰安所」制度を「近代化」とともに組織化されたものとし、日本敗戦後の韓国「基地村慰安婦」にも連なるものとしている。このような意味で「帝国」を用いるなら、植民地と占領地を峻別することに一体どのような意味があったのだろうか? 同じく、韓国「基地村」問題について、著者は次のようにも述べている。
 日本軍慰安婦問題が注目されたのは、彼女たちの体験を深刻な人権蹂躙と考えるほかないような過酷なものだったからである。しかし、米軍のために用意された女性たちの生活も、米軍の相手をするようになるまでの過程や、その後の生活を見る限り、日本軍慰安婦の状況と根本的には違いがない。彼女たちもまた、同じような悲惨な生活をしたのであり、そのような苦痛が、モノとしてあつかわれるような環境と、過酷な性労働ゆえのものだったのは言うまでもない。そして彼女たちがそのような境遇に陥ったのは、そこに国家が作った軍隊があったからである。(290ページ)
これが「朝鮮人慰安婦」は当時においては「日本人」であったことを強調し、「中国人女性たちは(中略)厳密な意味では『慰安婦』とは言えない」(45ページ)と主張した著者の筆から出た文言であると信じることができるだろうか?

2015年4月7日火曜日

千田夏光氏の「時代的拘束」について

 『帝国の慰安婦』は「いわゆる『慰安婦問題』の発生後の研究や発言が、『日本軍』をめぐる過去の解釈にとどまらず、発話者自身が拠って立つ現実政治の姿勢表明になった」とし、1973年に『〝声なき女〟八万人の告発−−従軍慰安婦』(双葉社)を刊行した千田夏光氏については「そのような時代的な拘束から自由だった」であろうとしている(いずれも26ページ)。73年に書かれた本が91年以降の「時代的な拘束」をまぬがれているのは当然であり、またそれゆえに一定の意義を持つであろうことは確かだろうが、逆に千田氏は千田氏で彼自身が属した時代に「拘束」されてもいたはずである。

 例えば双葉社版97-98ページ、講談社文庫版122ページには元関東軍参謀原善四郎氏と千田氏との対話の形で次のようなやりとりが記されている。
(前略) 「すると、朝鮮人女性は兵隊の精神鎮痛剤もしくは安定剤だったのですね。日本人の女性を集めることは考えなかったのですか。考えなかったとすれば、朝鮮人女性の方が集めるに罪悪感もしくは、抵抗感を覚えなくて済むからだったのですね」 「北満の駐屯地には大連(現旅大市)とか奉天(審陽)の花柳街から鞍替えして来た日本人女性もいました」 「でもそれはいわゆる慰安婦でない、つまり普通の商売女だったのではないですか」 「そうかも知れません」
花柳街から鞍替えして来た日本人女性」について「慰安婦でない、つまり普通の商売女」だとしているのが千田氏の方である。『帝国の慰安婦』でも批判されている認識、すなわち女性を「商売女」とそれ以外とに分け、「慰安婦」制度の問題点を“無垢な女性”に性的サービスを強要した点に見いだす発想を千田氏が(そしてまた原氏も)持っていたことがわかる。

 また「閑な部隊では慰安婦は軍人にとって『部隊の一員』であり、『女房みたい』に扱われていたと言う」(71ページ)という記述の根拠として『帝国の慰安婦』の70-71ページで引用されている元陸軍将校の証言(双葉版65-67ページ、文庫版84-86ページ)のうち朴裕河氏が引用していない部分には、軍医の検診を受けている「慰安婦」の様子を「高倍率の双眼鏡」で覗いていたという“思い出話”も含まれている(「楽しみといってはなんですが、検診もまた兵隊は楽しんでいました」「股をひろげているのが手に届くように見えるのです」「彼女らの検診まで、無聊をかこつ兵隊にとっては憂さを晴らす材料になっていたのでした」)。時として元軍人たちの人権意識に批判的なコメントもしている千田氏は、このエピソードについては「ここでわかるのは、兵隊たちは腰をすえる警備段階になると、彼女らを性欲の処理対象としてだけで見なくなっていたようであることだ。それにしてもユーモラスなのはこんな話であった」とコメントしている(双葉版67ページ、文庫版86ページ)。1924年生まれの故人が、検診の場面すら性的に消費される女性たちの立場を想像できていないことをあげつらっても詮無いことだ、とは言えるかもしれない。しかし性暴力についてのこのような「時代的な拘束」を被っている男たちの口から語られる「女房みたい」「部隊の一員」を現代の私たちが評価するにあたっては細心の注意を要するはずである。

 千田氏の「時代的拘束」のもう一つの例としては、日本軍が占領地から動員した「慰安婦」の徴集方法に関する認識がある(双葉版187-190ページ、文庫版227-230ページ)。「中国人、マレー人、タイ人、ビルマ人、インド人女性」ら「現地人女性」は「自由売春」「単純に金銭欲からくる意思による売春であるとしていい」とされ、「現地軍による現地人女性の強制慰安婦化はなかったのである」としてしまっているのである。むしろ占領地でこそ起こっていた直接的暴力による拉致・監禁を突き止められなかったことはやむを得ないことであったかもしれない。問題はむしろ、「現地人女性」の置かれていた立場を「敗戦後の日本女性と進駐軍とのあり方や関係とくらべて見た方がいい」という視点を持っていながらなお、「はっきり言えば自由意志による単純売春希望者の募集」であったと千田氏が考えている点にある。「彼女らにそうしなければならぬ状況をつくらせたものへの追究はここでもおくとして」(原文の傍点を下線に変更)とか「被占領地になるという状況が、こうした女性を生み出していくことも事実」だと断っている千田氏がなぜここまではっきりと「自由意志による単純売春」だと言ってしまえるのか不思議でならないが、「時代的拘束」のなせるわざということなのだろうか。

2015年4月2日木曜日

「挺身隊」を知らなかった千田夏光氏

 以前に千田夏光氏の『従軍慰安婦』を読んだのはずいぶん前のことなので、今回読み直して色々と発見があったのだが、その一つに千田氏が「挺身隊という言葉のあること」を取材を通じて「初めて知りました」と述べていることがある(講談社文庫版、148ページ)。1924年生まれで敗戦時には成人しており、戦後は新聞記者として働き、写真集『日本の戦歴』の編集にも関わった千田氏が「挺身隊」という語の存在すら知らなかった、というのである。
 
 しかし考えてみれば、戦時動員をどういう名目で、どういう法的根拠で行うかといったことは動員する側の関心事ではあっても、動員される側にしてみればそうとは限らない。むしろ「動員されること」それ自体がまずは重大なのであって、その名目やら法的根拠は二の次、三の次だというのが普通だろう。

 右派は「挺身隊」と「慰安婦」の混同についてあれこれと邪推して見せるわけだが、動員された側に取材したジャーナリストが「(女子勤労)挺身隊」が正確にはなんであるのかについてさほど関心を持たなかったとしても、特に不思議はないのではないだろうか。

2015年4月1日水曜日

かつて自分が援用した資料を否定する秦郁彦氏

 秦郁彦氏が日本軍「慰安婦」の総数についての推定を下方修正し続けてきた歴史についてはすでに多くの方が指摘している。だが3月17日に日本外国特派員協会で行った会見で、秦氏は他にも過去の自分の著作を否定するかのような発言をしている。マグロウ・ヒル社の歴史教科書に、「慰安婦」が「天皇からの贈り物である」という記述があることについて、秦氏は「国家元首に対する、あまりにも非常識な表現だろうと思います」と述べた。だが1999年の著作『慰安婦と戦場の性』は『元下級兵士が体験見聞した従軍慰安婦』(曾根一夫、白石書店、1993年)を援用し、「慰安所」に行こうとする兵士たちに上官が「大元帥陛下におかせられましては、戦地に在る将兵をおいたわりくだされて、慰安するための女性をつかわしくだされ……」と訓示した例があることを紹介している(74ページ)。秦氏はこの事例について「隊長たちは、部下兵士たちに慰安所を使わせる名分に苦労したらしい」と考察しているが、国家の一部門たる軍隊が買春施設を設けることをどう理解するかという問題に対して、まさしく「天皇からの贈り物」という「名分」を用いた将校がいたわけである。
 さらに太平洋戦争期になり「慰安婦」を船舶輸送する必要が生じた際、陸軍では42年4月頃から人事局恩賞課がその調整の窓口となったとしている(104ページ)。さすがに恩賞課の担当事項のうち「恩給、賜金」としてではなく「軍人援護、職業補導其ノ他厚生ニ関スル事項」のうちの「其ノ他厚生」としてであったが、官僚機構としての軍における「慰安婦」の位置付けが「天皇からの贈り物」に類するものとされていたことをこれは物語っているのではないだろうか?


追記:陸軍省軍事課に長く勤務した軍官僚、西浦進の回想『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』(日経ビジネス人文庫)を読んでいたら「慰安所」に関わる記述があったので紹介する。なお同書は、1947年にまとめられ小部数がタイプ印刷されたものが西浦の死後原書房から刊行され、2013年に改題のうえ文庫化されたものである。「慰安所」に関する記述は「所管争い」という小見出しがつけられた一節に含まれている(文庫版、143ページ)。わずか数行なので全文を引用する。原文のルビを( )内に移した。
 もう一つ、支那事変の初め、慰安所が初めて設けられることになった。中央における担任課はどこかということで一議論あった。軍紀風紀という点からいえば兵務課、衛生という点からは衛生課、恤兵(じゅつぺい)なれば恤兵部、何れにも属せざる事項とすれば官房、というので大分議論があったが、結局、恤兵部あたりで内地の仕事はすることになった。
なお『慰安婦と戦場の性』で人事局恩賞課が担当したとされているのは船舶輸送の調整であるから、「内地の仕事」の所管に関する上記の西浦の回想との間に齟齬があるわけではない。

2015年3月28日土曜日

『帝国の慰安婦』の驚くべきアナクロニズムについて/『帝国の慰安婦』私的コメント(3)

 『帝国の慰安婦』は41ページで森崎和江の『からゆきさん』(朝日新聞社、1976年)から次のような引用を行っている。傍点を下線に改めた。
 女たちは野戦郵便局から日々ふるさとへ送金した。送られる金は、はじめのうちは一人一日百円以下は少なくて、四、五百円のものもいるというぐあいだったが、やがて国内の娼妓と同じ苦境におちいった。女たちの数がますますふえていったためである。これらの店にあがることもできない兵士や労働者たちを客とする私娼窟もふえた。(森崎、一五五頁)
 この引用の第一の問題点は、引用文中にある傍点(ここでは下線)が森崎の原文には存在しない、ということである。傍点が引用者によるものだという断り書きもない。『帝国の慰安婦』には千田夏光の著作からの引用に際しても無断で傍点を付した箇所が複数ある。いずれも、研究者にあるまじきルール違反である(注1)(注2)。
 しかし問題点はそれだけではない。著者は上記の引用に続けてこう主張している。「おそらく、軍慰安所の第一の目的、あるいは意識されずとも機能してしまった部分は、高嶺の花だった買春を兵士の手にも届くものにすることだった」、と(41ページ)。当然、読者は『からゆきさん』からの上記引用が日中戦争の全面化に近い時期のものであると考えるだろう。
 ところが、出典にあたれば『からゆきさん』の上記の記述は1905年(明治38年)、日露戦争中の大連における売買春施設に関するものであることがわかる。1937年9月以降に本格的に制度化された日本軍「慰安所」制度の「目的」なり「機能」を1905年・大連での日本軍兵士の買春事情から推測するのがナンセンスであることは歴史学の素人にとっても明白であろう。しかし『帝国の慰安婦』は「いつ・どこで」がわからないようなかたちで『からゆきさん』からの引用を行うことにより、この驚くべきアナクロニズム(時代錯誤)を隠蔽してしまっているのである。
 『帝国の慰安婦』には他にも、およそ合理的な根拠なしに「慰安所」設置の目的に関して通説を否定している箇所が存在する。それについてはまた別稿で指摘することにしたい。
注1:さらに細かいことを言うなら、引用されている段落は「女たちは……」で始まるわけではなく、その前に1センテンスが存在する。その1センテンスが省略されていることも断られていない。しかし、本書に関してこの程度の問題を指摘していたらきりがないので、以後いちいち指摘しないかもしれないことをあらかじめお断りしておく。
注2:打ち消し線部分は筆者の誤認であったので、訂正するとともに朴裕河氏に謝罪したい。詳しくは改めて付記するが、取り急ぎ訂正と謝罪まで。ただし、注1の指摘については有効である。

2015年3月25日水曜日

「朝日新聞を糾す国民会議」の訴状を読む

 現在日本軍「慰安婦」問題に関連して『朝日新聞』に対して起こされている集団訴訟のうち、もっとも多数の原告を集めているのが「朝日新聞を糾す国民会議」によるものである。私は3つの訴訟の訴状を読み比べたのだが、その内容、というよりその文体において「朝日新聞を糾す国民会議」のそれは突出して異様だ。
 訴状の「加害行為」の項には次のような一節がある。
 朝日新聞は、戦後、一貫して、社会主義幻想に取りつかれ、反日自虐のイデオロギーに骨絡みとなり、日本の新聞であるにもかかわらず、祖国を呪詛し、明治維新以来の日本近代史において、日本の独立と近代化のために涙ぐましい努力をしてきた先人を辱めることに躊躇することはない。旧軍の将兵を辱めるときは、ことさらそうである。実際のところ、明治の建軍以来、日本の軍隊は、国際法を遵守し、世界で最も軍律が厳しく道義が高かったにもかかわらずである。客観報道・事実の報道をするわけではなく、国論の分かれる問題については、「報道」ではなく「キャンペーン」を張るのが常であった。朝日新聞は、これまで、クオリティーペーパー(高級紙)、社会の木鐸などというもおこがましく、国家・国民を誤導してきたものである。
これではまるでアジビラである。裁判官がどんな顔をしてこの訴状を読むのか、見てみたいものだ。訴状は続いて訴えの原因となる13本の記事の掲載日と見出しを列挙し、こう述べている(下線は引用者)。
 先ずは、朝日新聞的思い入れたっぷりの表現で綴られた本件一連の虚報を通読されたい。赤面するか憤るか、驚倒すべきことに、有り体にいうと、これが 全部嘘なのである。
右翼的「思い入れたっぷりの表現」でこんなことを書いているので、おもわず笑ってしまった。
 「朝日新聞虚偽報道が招来した恐るべき事態」という項の最後はこう結ばれている。
 最後に、断言したい。「朝日新聞の本件一連の虚報なかりせば、今日の事態は 絶対にあり得なかった」と。
もちろん『朝日新聞』に限らずマスメディアの初期報道にはいまから見れば事実に即していないものがあったのも確かだが、他方でもし1991年の時点で、今日までに判明している史実をすべて正しく報道できていたとしたら、国際社会の日本軍「慰安婦」問題に対する評価は似たり寄ったりだったであろうことは疑いの余地がない。

2015年3月9日月曜日

『帝国の慰安婦』における「平均年齢25歳」の誤り/『帝国の慰安婦』私的コメント(2)

 『帝国の慰安婦』が「〈慰安婦=少女〉のイメージ」(64ページ)を批判するために援用している資料の一つが、有名な「日本人捕虜尋問報告 第49号」である(153ページにも資料名は記されていないが、おそらくはこの尋問報告が念頭におかれている記述がある)。もっとも、『帝国の慰安婦』巻末の参考文献には、この尋問報告も収録された『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』が挙げられているにもかかわらず、「平均年齢は二五歳」という一句が船橋洋一の『歴史和解の旅』(朝日選書)から孫引きされている。ここで朴裕河が尋問時の年齢と「慰安婦」にされた/なった時の年齢とを区別せずに論述していることについては、すでに yasugoro_2012 さんが指摘されている。しかしこれ以外にも、この資料の扱い方の問題点はいくつかある。
 まず厳密に言えば尋問報告書には「平均年齢は二五歳」ではなく「平均的な朝鮮人慰安婦は二五歳くらい」(下線は引用者)とされていること。報告書の付録に記されている20名の年齢の平均を実際に計算してみると 23.2 歳となる。さらに、「平均的な朝鮮人慰安婦」の姿を知りたいからといって算術平均をとればよいというものではない。年齢の分布に偏りがある場合、平均は必ずしもよい指標にはならない。20名の年齢の最頻値と中央値はいずれも21歳である。女性たちが集められたのが尋問の2年前だということを計算に入れれば、19歳ということになる。

 もちろん「日本人捕虜尋問報告 第49号」だけで朝鮮人「慰安婦」の全体像を捉えることはできないが、少なくともこの資料を根拠とするならば典型的な朝鮮人「慰安婦」は未成年のうちに徴集されたと判断しなければならない。この資料は『帝国の慰安婦』のテーゼを裏付けるものではなく、むしろ否定するものと言わねばならないだろう。

追記:この記事に関連してある読者の方より以下のようなご指摘をいただいたので、ご紹介させていただく。

 『帝国の慰安婦』は「証言している慰安婦たちのほとんどが一〇代に『慰安婦』になったとしているのは、この『慰安婦問題』が発生した九〇年代には、すでに一九四〇年代から五〇年も経っていたためではないだろうか。つまり九四五年の時点で二五歳以上の人たちは、この時すでに七〇歳以上になっていたわけで、当時の平均寿命からすると既に亡くなっていたか、病気になっていた可能性が高い」としている(67-68ページ)。しかしこちらのデータによれば1991年当時の韓国における女性の「平均寿命」は約76歳である。1945年の時点で25歳の人は1991年の時点では71歳である。とすると、「慰安婦」にされた/なった時点ですでに20歳を越えていた人々が1991年の時点ですでに亡くなっていた割合が、未成年で「慰安婦」にされた人々に比べればある程度高いであろうことは推認できるものの、「証言している慰安婦たちのほとんどが一〇代に『慰安婦』になったとしている」(下線は引用者)ことを「平均寿命」だけで説明できるわけでもないだろう。「慰安所」での過酷な生活が「平均寿命」に影響したことも当然考えられるが、その影響は低年齢で「慰安婦」にさせられた人ほどより大きかったであろうと一般には推測できるであろう。いずれにせよ、「平均寿命」だけを根拠にした主張の説得力は割り引いて評価されねばならないはずである。

2015年3月5日木曜日

1991年のある投書

 1991年の7月30日、すなわち植村隆氏による金学順さんに関する最初の記事が掲載されるわずか10日前ほどの『朝日新聞』(大阪本社)朝刊の「女たちの太平洋戦争」欄に、次のような投書が掲載されていた。投書の主の氏名は伏せるが当時74歳の在日コリアン男性である。
 本欄によれば「大阪M遊郭から来た慰安婦もいたから、金に買われた女性も多い」とあったが、彼女らは軍人の慰安婦になるため身を売ったのではない。年配の方なら彼女たちの境遇は理解出来ると思う。ちなみに朝鮮人の娘たちは強制連行である。    どちらにしても、この女性たちは日本軍のなぶりものにされ、慰安婦という不浄なレッテルを張られたまま使い捨てにされ、その後の詳しい消息は今も不明のようである。かろうじて生き延びた女性が今は老女となり、日本国に何人かいると聞くが、この老女たちは過去の忌まわしい出来事を語ろうとはしない。   (中略)
  時には日本人から「侵略も悪いが、侵略された国にも責任がある」と言われることがある。なるほどと思う。   たとえ朝鮮民族が討ち死にして滅亡しても、日本の侵略に立ち向かって国家を守るべきだった。  (後略)
下線は引用者。
 この投書が興味を引く理由はいくつかある。一つは、こんにち日本の右派の一部(その代表格は中山成彬元衆院議員)が日本軍「慰安婦」問題に関して主張すること、すなわち「もし本当に多数の朝鮮人女性が強制連行されていたというのなら、なぜ朝鮮人(男性)は抵抗しなかったのか?」と似たようなことを在日コリアンに向かって言う日本人が当時もいたのだな、ということがうかがえる、という点。この論理は、「後になって『勝者の裁き』だの『押しつけ憲法』などと文句を言うのであれば、本土決戦で一億玉砕しておけばよかったのに」という具合に右派に跳ね返ってくるのであるが。
 しかし私がこの投書をとりあげた一番の理由は、当時74歳だった−−ということは1910年代生まれの−男性が、この10日ほど後に掲載される記事に加えられる非難にあらかじめ反論していた、という点にある。「彼女らは軍人の慰安婦になるため身を売ったのではない」。これさえわかっていれば、金学順さんが「キーセン学校」に通っていた経歴などまったく記事にするに値しないことが了解できるだろう。
 なおこの男性が「朝鮮人の娘たちは強制連行」されたと書いているからといって、吉田清次“証言”にみられるような連行形態を思い浮かべていたとは限らない、ということにも注意が必要である。90年、91年当時の朝鮮人強制連行に関する『朝日新聞』の記事では、強制連行が「募集」「官あっせん」「徴用」とさまざまな方法で行われたことが記されていることが度々あり、かつ「村人から何人出せ」と地域共同体に圧力をかける方式や、出稼ぎで来日し土木現場を転々としているところへ「役場(市役所)から呼び出しがあった」というケース、さらには「おれたちも白い米を食おう」と言い残して日本に渡ったケースなどまで含めて「強制連行」の被害者として扱っている。
 また、「挺身隊」についても同様で、「パラオ挺身隊」として戦闘に参加した人々が集められた経緯を「挺身隊は43年ごろ、日本軍が公募。志願した29人がパプアニューギニアへ行き」としている例がある。この当時の『朝日新聞』読者なら、「(強制)連行」「挺身隊」という単語から直ちに吉田清次的な“人狩り”を想起するわけではない、ということがうかがえるだろう。

2015年2月22日日曜日

「和服・日本髪の朝鮮人慰安婦の写真」とは?/『帝国の慰安婦』私的コメント(1)

 『帝国の慰安婦』(朴裕河、朝日新聞出版、2014年)については「慰安婦」問題をめぐる報道を再検証する会のブログでも情報発信をしてゆく予定になっているが、こちらのブログではあくまで私個人の責任においていくつかコメントしていきたい。
 まず最初にとりあげたいのは、『帝国の慰安婦』の24ページで言及されているある写真について、である。著者はその写真について、次のように言っている。

「占領直後とおぼしい風景の中に和服姿で乗り込む女性。中国人から蔑みの目で見られている日本髪の女性」。おそらくこの言葉が、あの十五年戦争における「朝鮮人慰安婦」を象徴的に語っていよう。なぜ朝鮮人慰安婦が、「日本髪」の「和服姿」で日本軍の「占領直後」の中国にいたのか。そしてなぜ「中国人から蔑みの目で見られてい」たのかも、そこから見えてくるはずだ。
 これまでの慰安婦をめぐる研究や言及は、このことにほとんど注目してこなかった。しかし、この点について考えない限り、朝鮮人慰安婦をめぐる記憶の闘いは永遠に続くだろう。(……)
では「このこと」に注目するとどのように「記憶の闘い」を終わらせることができるのか。その点についての著者の考えは本書を読了しても私にはまったくわからなかったのだが、それはまた別の機会に譲ろう。いまは本書の出発点とも言える、少なくとも著者自身によって「象徴」として重視されているこの写真についてのみ述べることにしよう。

 さて、上記引用を読んだ方は、「和服を着て日本髪を結った朝鮮人慰安婦が、占領されたばかりの中国の街に乗り込む」場面を思い浮かべられたはずである。実はこの一節は、千田夏光氏の『従軍慰安婦』(講談社文庫、1984年。著者が参照しているのは1973年に双葉社から刊行された『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』)のうち、千田氏が毎日新聞社刊の写真集『日本の戦歴』の編集作業に携わっているときのことを記した部分に依拠している。千田氏の記述は次のようなものである。
 ところがその作業の中に数十枚の不思議な女性の写真を発見したのである。兵隊とともに行軍する朝鮮人らしい女性。頭の上にトランクをのせている姿は朝鮮女性がよくやるポーズである。占領直後とおぼしい風景の中に和服姿で乗り込む女性。中国人から蔑みの目で見られている日本髪の女性。写真ネガにつけられている説明に“慰安婦”の文字はなかった。が、この女性の正体を追っているうち初めて“慰安婦”なる存在を知ったのであった。
講談社文庫版では259ページ。下線部は朴裕河氏が引用に際して傍点を振った部分である。

 さて、お気づきになられたであろうか? この千田氏の記述を読んだ後で改めて朴氏の記述を読めば、彼女が「日本髪、和服姿の朝鮮人女性が頭の上にトランクをのせ、兵隊とともに占領直後の中国の街を行進し、中国人から蔑みの目で見られている」写真を描写していることがわかるはずである。だが、千田氏が見たのは本当にそんな写真だったのだろうか?

 まずは写真1(ここをクリックをご覧いただきたい。「兵隊とともに行軍する」女性(写真だけではわからないが、67年版の『日本の戦歴』のキャプションでは「前進する部隊を追って黄河をわたる慰安婦たち」とされている)、「頭の上にトランクをのせている」女性が写っている。次に写真2(ここをクリック)をご覧いただきたい。和服姿、日本髪の女性が中国と思しき街を歩き、中国人と思しき男性に視線を送られている。第1の写真の女性たちは和服姿、日本髪ではなく、第2の写真の女性たちは兵隊とともに行軍しておらず、頭にトランクをのせてもいない。ここで改めて千田氏の記述を読み直していただければ、これが2枚の写真についてのものであることがお判りいただけよう。朴氏はどうやらこの2枚の写真についての記述を1枚の写真のものだと思い込んでいるようなのだ。確かに、和服姿に日本髪であれば履き物も(2枚目の女性たちのように)草履になるのが自然で、草履履きで(1枚目の女性たちのように)兵士たちとともに「行軍」できるとはちょっと思えない。

 だとすると、2枚目の写真の和服姿、日本髪の女性たちが「朝鮮人」慰安婦だと考える根拠はないことになる。私の手元には1967年版の『日本の戦歴』があるが、写真に付されたキャプションによれば2枚目の写真の女性たちは「内地」からやってきたとされている。

 次の2つの事情がなければ、私もこの程度のミスをあげつらおうとは思わなかっただろう。1つは、この「写真」が「あの十五年戦争における『朝鮮人慰安婦』を象徴的に語って」いるものとして、著者自身によって重視されているということ。本書の主張の根拠として重要であるとは言えないにしても、本書の着想にとっては重要なものだったはずだから、である。それだけ重視されている「写真」が実在しないとしたら?

 もう1つの事情とは、本書の参考文献には毎日新聞社刊の『日本の来歴』が1965年版(『毎日グラフ』別冊)、67年版の双方とも記載されていることである。それだけでなく、本書の75ページでは、千田氏から「彼女らが部隊を追い行動するときは洋装が普通だった」「洋装といっても木綿のワンピースかスーツだったという」「これに晴れ着や身のまわりの品をつめたトランクを持ち兵隊と一緒に歩いていた」「渡江の際は褌ひとつになる兵隊の横で裾を腰までからげていたという」といった記述を引用したうえで、「実際に千田が言及した写真集には、千田の語る光景をそのまま移したような写真も収められている」とされているのである。「千田の語る光景をそのまま移したような写真」が前出1枚目の写真であることに疑いはない。朴氏はこの写真を見たうえで、なおもう1枚の写真との混同に気づいていないのである。このようなずさんさは決してこの箇所にとどまるわけではない。それが、あえてこの写真の混同についてとりあげるもう1つの理由である。

 以下は余談である。1965年版の『日本の戦歴』で1枚目の女性たちの写真に付されたキャプションでは、「慰安婦」一般の説明として「朝鮮婦人が多かった」とされていたようであるが、写真の女性たちが朝鮮人であったとはされていなかったようである。67年版の『日本の戦歴』のキャプションにはそもそも「朝鮮」の2文字はない。
 実は1枚目の(左側にトランクを頭にのせた女性が写っている)写真は、日本の右派が「慰安婦」問題について主張していることをフォローしている人間にはおなじみのものである。彼らは女性の笑顔が印象的なこの写真を、「朝鮮人慰安婦の待遇がよかった」ことの証拠としてしばしば持ち出すからである。しかし千田氏は「朝鮮人らしい」と述べているだけである。しかもその推定の根拠は「頭の上にトランクをのせている姿は朝鮮女性がよくやるポーズ」だということに過ぎない。「頭の上にのせるポーズ」は朝鮮に限らず女性が重い荷物を運ぶような労働に従事する社会ではよく見られるものだし、さらに言えばこの女性たちは川を徒歩で渡っているところであるから、単に荷物が濡れないように頭にのせていただけかもしれない。キャプションによれば写真が撮影されたのは38年6月、日中戦争が全面化してからまだ1年たたない時期であることを考えれば、1枚目の女性が朝鮮人であるという推定もさほど蓋然性のあるものとは思えない。右派は、自分たちにとって気に入らない千田氏の錯誤については好んで指摘するが、あやふやな推定であっても自分たちにとって都合のよい場合にはそのあやふやさを看過するようである。

追記(2015年3月23日)
 1965年刊行の『毎日グラフ』別冊の方の『日本の戦歴』も入手することができたので、それぞれについて上記2枚の写真のキャプションを紹介したい。まず写真1の65年版キャプションは以下の通り。

次に同じ写真の67年版キャプションは以下の通り。いずれのキャプションでも、写真の女性たちについて直接「朝鮮人慰安婦」であるとする記述はない。

写真2の65年版キャプションは以下の通り。
67年版キャプションは以下の通りである。

また、二人の中国人男性の表情もご覧いただこう。「蔑みの目」と断定しうるようなものかどうか、ご確認いただきたい。

2015年2月21日土曜日

『週刊金曜日』2月6日号掲載拙稿への補足(2)

 『産経新聞』の連載「歴史戦」の第9部が2月15日の一面トップで始まったことで少し間が空いてしまいましたが、『週刊金曜日』の1026号(2月6日号)に掲載された拙稿への補足の続きです。今回は、植村隆氏へのバッシングのもう一つの焦点である、1991年12月25日付の記事について。こちらについても金学順さんが「キーセン学校」に通っていたことなどを書かなかったことが「捏造」だとされています。
 こちらの記事が執筆された時点では金学順さんを支援していたのが太平洋戦争犠牲者遺族会ですから、その点だけをとれば植村氏と義母との関係を根拠とした「捏造」主張は成立する余地があります。その代わり、この時点では金学順さんに関する情報が一部の支援者だけが知りうるものではなく、訴状や記者会見での発言を通じてオープンになっているという事情があります。では、他紙は金学順さんについてどう報じていたのでしょうか?


 

写真はいずれも1991年12月6日の『読売新聞』夕刊紙面より。太平洋戦争犠牲者遺族会による日本政府の提訴を伝える記事ですが、金学順さんについて書かれているのはこれだけです。「キーセン学校」のことも書かれていなければ「養父」のことも書かれていません。いずれも訴状には書かれていることです。なぜ『読売』のこの記事は「捏造」だと非難されないのでしょうか?
 多くの情報から限られた紙面にどれを掲載するかは、各記者や各紙のニュース価値に関する判断によって決まります。その判断において、『朝日』ないし植村氏が他紙と大きく違っていたという事実はないわけです。金学順さんが「慰安所」に到着して「しまった」と思ったのは「養父」とは別れた後のことです。金学順さんの訴えは、それ以降始まった日本軍「慰安所」での被害に関するものですから、「それ以前」の事柄に高いニュース価値を見出さなかったのは至極当然のことです。
 逆に「慰安所」到着以前の事情に日本の右派が執着していることは、性暴力被害に関する彼らのバイアスを反映しているのです。

2015年2月16日月曜日

ブックマークコメントの錯誤について

 それ自体としては大した話ではないのですが、現在進行形で歴史修正主義者が展開しているプロパガンダと関わることなので、一応コメントしておきます。今朝公開した「『見なかった』証言の詐術」という記事に対するはてなブックマークコメントについてです。
bahrelghazali そういえば、産経が「慰安婦を理由に、アメリカの日本人児童がいじめられている」という記事に対し、日本の左翼は「そんな話は知らない」という僅かな証言だけを根拠に、いじめは存在しないと断定したっけ。(http://b.hatena.ne.jp/entry/nogawam.blogspot.com/2015/02/blog-post_16.html)
 このコメントがはらむ誤りは2つあります。秦郁彦氏が言っているのは「見ていない」という証言をいくら集めても「確実な目撃者が二人現れたら」火事は起きたのだと判断して当然だ、ということです。しかし「慰安婦を理由に在米日本人の子供がいじめられている」に関しては「確実な目撃者」あるいは体験者はただの一人も現れていません。いるのは「いじめられたと言ってる人がいる」と言ってる人、だけです。秦氏は「火事が起きたらしいよ」と言っている人を「確実な目撃者」とはみなさないでしょう。当然のことながら。
 第二に、秦氏が目黒区で起きた火事や犯罪についての情報をまとめて報告される立場にないのと同じように、産経の記事に登場する第6師団の下士官は師団が関わった虐殺についての情報をまとめて報告されるような立場にはいなかった、という点です。目黒区の消防署が「火事の報告は受けていません」と述べたのであれば、それは普通の区民が「火事は見ていない」と述べるのとは全く違った意味を持ちます。そして右派メディアが言うところの「慰安婦を理由としたいじめ」なるものについては、学校、警察、日本の大使館など(もしそういう事実があるのなら)関連情報が集まってくるはずの機関に問い合わせた人が「そんな報告は受けていない」との返答を得ているのです。グレンデール市でたまたま出くわした市民に「こんな話、知りませんか?」と尋ねて「いや、知らないなぁ」という返事をもらったので「いじめはなかった」と結論付けた、なんて話しではありません。自分が直接に見聞したこと以外には非公式な伝聞等でしか知らない立場の人間と、多数の人間から寄せられる報告を公式に受け取る立場の人間とでは、その証言の扱い方は当然違ってきます。

 軍隊においては階級が上になるほど「全体」についてはよく知っているが現場の生の様子は知らないことがある、階級が下になるほどその逆の傾向になる……というのは軍人の証言を聞くときに念頭に置いておくべき基本的な事柄の一つです。



歴史修正主義の手法に見られるパターン

 心理学者のセス・C・カリッチマンは『エイズを弄ぶ人々ー疑似科学と陰謀説が招いた人類の悲劇』(化学同人、2011年。原題 Denying AIDS: Conspiracy Theories, Pseudoscience, and Human Tradegy, 2009)においてエイズ否認主義の典型的な手法をまとめています。実はこの手法は疑似科学一般にも、さらには歴史修正主義においても見られるものです。カリッチマンは科学ジャーナリストのマイケル・シャーマーの分析に着想を得ているのですが、シャーマーはホロコースト否定論が疑似科学と同じパターンの論法を使用していることを指摘しています(『なぜ人はニセ科学を信じるのか II』、早川文庫)。以下にカリッチマンの指摘の主なものをメモしてコメントを付します。太字になっているのは原文の小見出し。
第4章  否認主義者のジャーナリズムと陰謀説
エイズをめぐる大規模な議論?(164ページ〜)
「否認主義のジャーナリストは、HIVがエイズの原因かどうかについて、公の場で公正な議論を行うことをしつこく要求する」「否認主義者から見れば、エイズ学者は真実の発覚を恐れて、HIVがエイズの原因かどうかについての議論を避けている、ということになるようだ」「一方、エイズ学者から見れば、HIVがエイズの原因かどうかという問題はすでに解決済みであり、改めて議論すれば、それを未解決と見なすことになるのだ」
コメント:河村たかし・名古屋市長が南京大虐殺否定発言の問題化後に言い訳として用いたのもこの論法。ネットにも「検証するくらいいいじゃないか」みたいな発言はゴロゴロしているが、しかしそんなことを言う人々が過去の「議論」の蓄積をきちんと参照したためしはない。
科学を宗教として描く(173ページ〜)
「否認主義には宗教的含みが無数に見られ、特に主流のエイズ学について説明する際には、しばしば宗教がかった言い方をする。エイズ学は『正統派(オーソドクシー)で、「HIV=エイズの教義(ドグマ)」を奨励し、HIVがエイズの原因かどうかに疑問を持つ科学者を「破門する」、といった具合だ」「科学を宗教のように扱うのは、科学的証拠を単なる信仰のひとつとして片づけたいからだ」(原文のルビをカッコ書きに改めた)
コメント:「正統派」といったタームは日本ではさほどポピュラーではないが、「左翼の信仰」として片付けようとする発想はやはり見られる。
いいとこ取り(175ページ〜)
「自分の主張に合うように、他者の研究結果を選んで抜き出す」
コメント:これは歴史修正主義においてもド定番。先の記事では南京市の城内(南京は城壁都市を中心として成立)が平穏だったという証言を取り上げた『産経新聞』の否定論を紹介しましたが、戦後の戦犯裁判の事実認定でも、現在の中国政府や中国の研究者の認識においても、さらには日本側研究者の見解でも、大規模な虐殺の大部分は城外で起こったとされていますから、城内に大虐殺の痕跡がないのは当然なのですね。典型的なパターンは揚子江岸に連れ出して殺害するというものでしたが、これはもちろん遺体の処理が容易だからです。ところが右派は、笠原十九司さんの「南京城内では、数千、万単位の死体が横たわるような虐殺はおこなわれていない」という主張を引き合いに出して「ほら、大虐殺は起こっていないと左翼学者も認めている」と宣伝することがあります。

日本軍「慰安婦」問題に関しては吉見義明さんの「朝鮮半島では軍による人さらい的な強制連行はなかったと思われる」という趣旨の主張が否定論・否認論に利用されてきました。最近では橋下徹・大阪市長の12年8月24日発言など。
単独研究をめぐる過ち(176ページ〜)
「一つの科学研究がなにかを『証明』したことはない。(……)科学では、ある研究の結果が事実として受け入れられるには、複数の独立した研究で同じ結果が出ることが求められる」「否認主義者は、HIVがエイズの原因であることを証明する単独の研究がないからエイズ学はいんちきだと攻撃する」 「単独の研究をめぐるもうひとつのごまかしに、単独の研究論文を選んで、それを証明のよりどころにするというものがある」
コメント:これは「研究」を「史料」に置き換えれば歴史修正主義のかなり重要な特徴。「命令書はあるのか?」のようなタイプ。紙ペラ1枚で複雑な史実が認定されるかのような認識を持っているのだろう。
一九八〇年代にこだわる(178ページ〜)
「否認主義のジャーナリストは、一九八〇年代に行われた研究からもっぱら引用しようとする。当時はエイズについてわかっていることが今よりはるかに少なかった」「また否認主義者は、一九八〇年代にエイズ学者が予測に失敗した事例も持ち出す」
コメント:「慰安婦」問題についていえば「1990年代初頭にこだわる」となろう。いまだに「吉田清治」にこだわっていることなどがその好例。
ゴールポストを下げる(179ページ〜)
「否認主義者が使うもう一つの一般的な戦略は、証拠が出されるとすぐ、さらに明確な証拠を要求することだ」
コメント:これも歴史修正主義者の得意技。間もなくNHK経営委員を退任する某ベストセラー作家の例。
「意外に知られていないことだが、南京陥落当時の日本と中国は国際的には戦争状態ではなかった。だから当時の南京は欧米のジャーナリストやカメラマンが多数いた。もし何千人という虐殺が起こったりしたら、その残虐行為は世界に発信されていたはずだ。しかし実際にはそんな記事はどこにもない。」 http://twitter.com/hyakutanaoki/status/381973087731732480 ↓ 「根拠も証拠もない伝聞記事が載ったのは知っていますが。 RT @aka6446: @hyakutanaoki @gadeniijima 事件直後にアメリカの新聞に大きく報道されたのを知らないようですね。秦郁彦の「南京事件」くらいは読みましょう。」 http://twitter.com/hyakutanaoki/status/382829294650523648
曲解(182ページ〜)
「本質的に否認主義には、事実を自分たちの目的に合うように曲解する傾向がある」「同じような曲解は、CDCや世界保健機関が新情報やより正確なデータを反映させて疫学統計値を訂正するたびに起こる。否認主義者は、訂正前の数字がエイズ問題を誇張するためにわざと大きな数字になっていたかのように解釈する」
コメント:「中国が主張する南京大虐殺の犠牲者数が年々増えている」など。敗戦後の中国による戦犯裁判の判決がすでに犠牲者数を「34万人」としており、「
年々増えている」などという事実はない。また、「同日〔=河野談話発表の日〕の調査結果の発表までに政府が発見した資料の中には、軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかったところである」という07年答弁書の記述を、「07年の閣議決定で強制連行の証拠はないことが明らかになった」とするのもこのパターン。
陰謀がらみの検閲(188ページ〜)
「否認主義者は、自分たちは検閲の被害者であり、科学界から追放され、仕事を奪われる脅威に直面していると訴える」
コメント:マスコミやアカデミズムはサヨクや在日に牛耳られている、とか国際社会は中韓のプロパガンダに騙されている、等々。
第5章 否認主義の政治
記者会見(201ページ〜)
1984年4月23日の、ロバート・ギャロの記者会見(エイズの原因ウィルス特定の発表)は、論文の掲載に先立つ会見で、発表内容にものちに誤りと判明するものが含まれており、かつその後「誰が最初に発見したか?」をめぐる争いに巻き込まれた
「否認主義者の書籍や小冊子やインターネットウェブサイトのほとんどは、HIVがエイズの原因であることを疑う理由として、この記者会見に焦点を当てている」
コメント:いわゆる「一点突破全面展開」論法。吉田清治氏や東史郎氏などが恰好のターゲットになる。
大統領の否認主義(206ページ〜)
 エイズ否認論が国家レベルで影響力を発揮したために多大な犠牲者が出たのが南アフリカだが、ムベキ大統領(当時)の否認主義への加担(216ページ〜)についても、歴史修正主義を考えるうえで示唆的なところがいくつかある。
「多くの人が、ムベキ大統領は非常に聡明な人物だと言う」「ムベキは、HIVはエイズの原因ではないとおおっぴらに言うことはなかったが、HIVがエイズの原因だと考えているとも言わなかった」「既存の科学には正しいものもまちがっているものもあり、すべてをうのみにしてはならない、というのが彼の信念だった」「自らの知性に自信を持ち、西側諸国や医学、巨大製薬会社が流す情報に不信感を抱いていたムベキは、デューズバーグのエイズ観をきわめて受け入れやすい状態にあった」
コメント:歴史修正主義を「欠如モデル」で説明することの問題点、「否定しているわけじゃない、ただもっと調べるべきだと言っているだけ」という態度が事実上否認論への加担になること、一般論としては間違いとはいえない懐疑主義が誤って適用されることの帰結、等々。

「見なかった」証言の詐術

 『産経新聞』が連載「歴史戦」の第9部で「兵士たちの証言」を引き合いに出して南京大虐殺否定論を展開しています。2月15日の第1弾では熊本第6師団の下士官として南京攻略戦に従軍した人物が登場しています。
 しかし記事中にもあるように、第6師団はなにぶん師団長が戦犯裁判で死刑になっているため身内をかばう意識が強く、この師団の関係者の「見なかった」「なかった」証言は一番あてになりません。偕行社の『南京戦史資料集』にも第6師団だけ「不法殺害を思わせる手記、日記の類い」が載っていない。これについて秦郁彦氏は「連隊会は第六師団を担当した編集委員の努力に感謝したという話が伝わっている」としています(『南京事件 増補版』、290-291ページ)。

1984年に『朝日新聞』が第6師団歩兵第23連隊(都城)の兵士の日記に南京戦での虐殺が記されているのを報じた際には、連隊会が“犯人探し”をした、という実績もあります。日記には「近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえて来ては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり」「今日もまた罪のないニーヤを突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする」など、「無抵抗の民間人」を殺害したことが記されていました。 この日記について秦氏は「都城連隊には、たしかに虐殺はあった、と主張する元兵士(中略)もいるし、確実と考えてよいと思う」、としています(『昭和史の謎を追う』、文春文庫、上巻196ページ)。
  もちろん、だからといって個々の「見なかった」証言が虚偽とも限りません。「筆者は東京・目黒区の一角に住んでいるが、朝刊を開いて、前夜、近所で火事や犯罪が起きているのを知り、びっくりすることが多い。新聞がなければ、聞かれても「知らない」「見ていない」と答える事例がほとんどであろう。その種の証言を苦労して山ほど積みあげても、火事の確実な目撃者が二人現れたら、シロの主張は潰れてしまうに決まっている。」というのはまたしても秦郁彦氏(『昭和史の謎を追う』上巻183-184ページ)。 一人の人間が直接経験できるのは歴史的な出来事の断片にすぎませんから、たまたま虐殺の痕跡など無いところしか通らなかった人間がいたとしても不思議はないのです。
 なお、南京占領後に第11軍司令官として第6師団を指揮下においていた岡村寧次が「第六師団の如きは慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様」と回想しているのは有名な話です。また戦後に戦犯として処刑されることになる谷寿夫から37年末に師団長を引き継いだ稲葉四郎の言葉として、岡村は「わが師団将兵は戦闘第一主義に徹し豪勇絶倫なるも掠奪強姦などの非行を軽視する」ともしています。
 2月16日の第2弾では海軍第2連合航空隊第12航空隊に所属していた下士官が登場していますが、当時第2連合航空隊第13航空隊に所属していた奥宮正武氏(海軍大本営参謀、戦後は航空自衛隊で空将)は著書『私の見た南京事件』(PHP研究所)で全く異なる証言をしています。彼は占領後の南京で撃墜された自軍パイロットの遺体収容のための捜索活動をしていますが、その間2日にわたって約500人の中国人が殺害されるところを目撃しています。殺害を担当していた部隊にどうやって多くの中国人がおとなしく連行されてきたのかを尋ねたところ、食事を与えるという嘘をついて連れてきた、という趣旨の返答を得ています。
 最も大規模な集団殺害は南京占領直後に集中していますが、占領から1週間たっても2日で500人の集団殺害を1人の人間が目撃できたわけですから、全体の規模を推し量る材料の一つになるでしょう。


2015年2月13日金曜日

『週刊金曜日』2月6日号掲載拙稿への補足(1)

 『週刊金曜日』の1026号(2月6日号)に掲載された拙稿は、元『朝日新聞』記者の植村隆さんが『週刊文春』を発行する文藝春秋社ほかを提訴したことに対する右派メディア上の反応をとりあげたものですが、右派メディアが口を揃えるかのように主張しているのが「言論人ならなぜ言論で反論しないのか?」ということでした。このような反応は、植村氏が元新聞記者であり現在も非常勤ながら大学教員であるため、提訴前から予想していたものです。そんなに「言論」の場での決着を望むなら、『週刊文春』は「論争で負けた場合には西岡力氏と連帯して植村さんの遺失利益を全額補償する」とでも宣言すればいいと思うのですが。

 一見するともっともらしいこの主張は、1月26日に『朝日新聞』を提訴した原告団の中に多数の言論人が含まれていることですっかり説得力を失ってしまいましたが、記事中で私が強調したかったポイントはむしろ、「歴史修正主義者に言論の場での反論をすることに意味があるのか?」というものでした。この点について、多少補足しておきます。植村さんが書いた記事に関して右派が攻撃の対象としているのは「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」という記述などに見られる、いわゆる「慰安婦と挺身隊の混同」、それから金学順さんが「キーセン学校」に通っていた経歴を書かなかったこと、という2点です。これら2つがいずれも、植村さんの義母である梁順任さんが関わっていた訴訟を有利にするための「捏造」だというわけです。

 ここで関連する出来事の時系列を確認しておきましょう。


  • 1991年8月10日 植村記者(当時)が韓国挺対協を介して金学順さんの証言テープを聴取
  • 1991年8月11日 『朝日新聞』大阪本社版に記事掲載(東京本社版は翌11日に短縮版を掲載。したがって縮刷版には11日の記事は載っていません。)
  • 1991年9月19日 梁順任さんと金学順さんが初めて対面。ただしこの時点では「あいさつ」をしただけ。
  • 1991年11月25日 植村記者が弁護団による金学順さんへの聞き取りに同行、取材
  • 1991年12月6日 金学順さんら太平洋戦争犠牲者遺族会が日本政府を提訴
  • 1991年12月25日 金学順さんについての植村記者の記事が『朝日新聞』大阪本社版に掲載

梁順任さんが関わっているのは挺対協ではなく太平洋戦争犠牲者遺族会ですから、まず8月11日の記事に関しては「義母の訴訟のため……」という主張が成立する余地がありません。にもかかわらず、『文藝春秋』の本年1月号に掲載された植村さんの手記に関して西岡力氏は次のような弁明をしています(『正論』2月号)。
 確かに私は、植村氏が説明をしない前には、金氏に関する情報提供も梁氏が行ったのではないかと考え、そのように書いて来た。しかし、それは推量であって批判ではない。私が批判しているのは、利害関係者が捏造記事を書いてよいのかというジャーナリズムの倫理だ。植村氏と朝日はその点について答えていない。言論による論争が必要な所以だ。
「推量」だったら「批判」じゃないというのも珍妙な論理ですが、そもそも8月11日の記事が出た時点では植村さんは金学順さんの訴訟に関して「利害関係者」ではないわけです。にもかかわらず、西岡氏は8月11日の記事に関する自説を撤回していません。これ以上なにを「言論」によって反論すればいいのでしょうか?
 他方、12月25日の記事が出た時点ではすでに訴状によって金学順さんが「キーセン学校」に通っていたことは誰でも知りうることになっており、植村さんが記事に書かなかったからといって隠蔽できるわけではありません。そして「キーセン学校」云々に触れない記事は他紙にもあったのですから、「捏造」というのは当たらないわけです。この点については稿を改めます。



2015年2月8日日曜日

「ネット右翼」の道徳概念システム(4)

『現代の理論』(明石書店)2008年新春号に掲載された拙稿の元原稿を、許可を得て公開します。一部の表現に違いはありますが論旨に変わりはありません。なお、執筆した2007年当時の情勢を念頭に置いて書かれたものであることをご承知おきください。

 募金活動や(イラクでの)人質へのバッシング、「祭り」の対象となった人物への誹謗中傷や個人情報の暴露などは「ネットにおける道義心の欠如」の現われとして語られることもあるが、むしろ「ネット右翼」は過剰に道徳的であると言うことができる。募金活動への批判は「両親が自宅などの資産をまず処分すべき」といった主張を含んでいたし、イラク人質事件の際も政府の勧告を無視して危険地帯に渡航し、社会に「迷惑をかけた」ことが非難の対象となったのであった。
 とはいえ、刑事事件については「被害者(遺族)の立場」を重んじることを主張しながら、従軍慰安婦問題に関しては被害者を「嘘つき」「金目当て」呼ばわりすることができる道徳観とはいったいいかなるものなのか、理解に苦しむ…これが「ネット右翼」の行動をダブルスタンダードのような道徳的欺瞞として説明したくなる理由であろう。最後にこの点を通じて、「ネット右翼」現象を理解するための手がかりを探ってゆきたい。


 「被害者」に対する矛盾した態度と見えるものを首尾一貫した態度として解釈することを可能にするのが、アメリカの哲学者ジョージ・レイコフの「モラル(道徳)概念システム」論である(注5)。彼はアメリカにおける保守派とリベラル派との政治的対立を次のような理論的枠組みによって説明しようと試みている。

(注5) ジョージ・レイフコ、『比喩によるモラルと政治--米国における保守とリベラル--』(小林良彰・鍋島弘治朗訳)、木鐸社。また(注2)で言及した拙稿も参照されたい。

(A) 要素的な道徳的価値をみれば、保守派とリベラル派は同じ価値を共有している。しかしながら、要素的諸価値が異なるしかたで構造化されることにより、まったく異なる道徳的判断を導くことになる。

(B) 国家と市民の関係は「家族メタファー」を通じて理解されるが、保守派は「厳しい父親」を中心とした家族メタファーを用いるのに対して、リベラル派は「慈しむ両親」を中心としたメタファーを用いている。その結果、保守派のモラル概念システムでは「強さ」に関わる道徳的価値に高い優先順位が与えられ、リベラル派のモラル概念システムでは「慈しみ」に関わる道徳的価値に高い優先順位が与えられることになる。


 レイコフ自身が議論の出発点としているのは、アメリカの保守派が死刑制度を支持し人工妊娠中絶に反対する傾向がありリベラル派はその逆であること、そして双方が相手の立場を自家撞着と考えているという事態である。これまで観察してきた「刑事犯罪には厳罰を要求し、戦争犯罪には寛容」という右派の傾向(およびそれに対する左派の反応)と同じ構図であることは容易に了解できるだろう。

 レイコフの議論を日本社会に適用するにあたって必要と思われる考察をここで行なう余裕は無いが、保守派・右派が「強さ」に高い道徳的価値を認めているという仮説はこれまで述べてきたような「ネット右翼」のふるまいを非常によく説明する。「強さ」に高い優先順位を与えるモラル概念システムは、国家が「悪」に対して「力」で立ち向かうことを要求する。無垢な犯罪被害者は庇護されるべき対象であり、犯罪という「悪」には厳罰という「力」で対抗すべきである。戦争もまた国家の「力」の発露であり、選択肢として忌避されるべきではない。戦争被害は正当な選択肢たる戦争の必然的な結果(「しょうがない」)であるから、戦争被害者は無垢な刑事犯罪被害者とは区別されねばならない。場合によっては戦争被害は被害者の「弱さ」の結果であり、被害者自身が責任を負わねばならないものである(この点は、性犯罪の被害が被害者の「道徳的な弱さ」の結果であり、それゆえ被害者も責任を負わねばならない、という犠牲者非難に通じる)。南京大虐殺を構成する各種の戦争犯罪のうち、特に捕虜の殺害については具体的な殺害人数を記した旧軍の文書(戦闘詳報など)によって異論の余地なく裏付けられている。すると南京事件否定派は「捕虜殺害は必要に迫られてのことであり、違法ではなかった」と主張するのである(同様に、原爆の被害についても被害者はあきらめるべきだとされる)。敗走する敵を追撃した戦闘での捕虜殺害を正当化するという主張を受けいれることは、「弱さ」を道徳的瑕疵と結びつけるようなモラル概念システムによって可能になるのである(注6)。自らの「弱さ」ゆえに困難に陥っている者を助けることは不道徳であり(前記募金活動へのバッシングを参照)、マイノリティは自らの抱える問題を社会・国家のせいにすべきではない(「声をあげる少数派」への反発)。
(注6) ただし、武装解除され無抵抗の人間を一方的に殺害した、という虐殺の形態は「強さ」を重んじる道徳観には反する側面も持っている。「モラル概念システム」論を援用する意味の一つとして、「ネット右翼」に対してはどのような語りかたが有効であるかを考える手がかりを得られる、というものがあるだろう。
 実際、保守的なモラル概念システムの持ち主でありながら、戦争被害・戦争犯罪問題に関して左派がさほど違和感を持たないような認識を持っている人々も少なくない。戦争被害・戦争犯罪を容認・免罪する主張がネット上でより目立つとすれば、前述したシニシズムがその大きな要因であると思われる。

 国家に「強さ」を求める人々がその社会のなかで「強者」であるとは限らず、むしろ「強さ」を支持し志向する政策によって痛めつけられている当事者であることが多い…といったことは、アメリカにおけるブッシュ政権の支持層や、「小泉改革」の支持層について分析されたことであるし、「ネット右翼」についてもしばしば言われることである。レイコフの議論が示唆するのは、問題が「有権者の自己利益に関する認識」ではないという可能性である。「強さ」を重んじる政策が彼らの利益につながらないという「事実」を指摘するだけでは、「強さ」に価値をおくモラル概念システムの結論を変えさせるに十分ではない、という示唆をここから得ることができるだろう。
 自らを「弱者」として表象することは彼らのモラル概念システムにとって基本的に困難である。弱いことが道徳的に許容されるのは、子どものように自らを守る力をもたない者だけである。それゆえ彼らが自らの弱さを認める際には「連合国により武装解除され、左傾マスコミによって洗脳された結果、反日勢力に対抗できなくなっている」といった陰謀論的な認識枠組みが発動されやすくなる。戦後長らくアメリカの圧倒的な影響力下にあり、今日では中国の経済成長によって存在感が薄らぎつつあるという日本の現状は、こうした陰謀論にとって絶好の培地なのである。

2015年2月7日土曜日

「ネット右翼」の道徳概念システム(3)

『現代の理論』(明石書店)2008年新春号に掲載された拙稿の元原稿を、許可を得て公開します。一部の表現に違いはありますが論旨に変わりはありません。なお、執筆した2007年当時の情勢を念頭に置いて書かれたものであることをご承知おきください。

 前置きが長くなったが、ここで「ネット右翼」が特にどのようなトピックをめぐって活発に発言しているのかを見てみることにしよう。ただし、以下のリストは網羅的であることを目指してはいない。
(1)歴史認識・東アジア情勢
 中国、韓国、北朝鮮に「特定アジア」という蔑称が用いられ、これら三国についての否定的な情報を虚実取り混ぜ消費、再生産している。戦争責任はもっぱら「特定アジア」が言い立てているというのが彼らの認識であり、それゆえ安倍前首相がアメリカの圧力によって「従軍慰安婦」についての自説を表向き撤回したことは「中国によるロビー活動の結果」であるといった陰謀論的解釈を施される。
(2)軍事・憲法九条
 九条「護憲」派や反戦運動への態度が冷笑的であるのは特に説明を要しないだろう。注目すべきは例えば米軍が使用する劣化ウラン弾や白燐弾を非人道的兵器であるとする主張への強固な否定論が存在することである。これは、旧軍による戦争犯罪の否認が単に戦前の日本を美化したいという欲求だけに根拠をもっているわけではなく、戦争被害一般に対するシニカルな態度が存在していることをうかがわせる。
(3)朝日・岩波的なもの
 前記のように「日本の言論界は左傾していた」というのが彼らの発言を支える大きな前提となっており、その象徴として朝日新聞や「岩波文化人」が頭ごなしの否定の対象となる。このような前提の下では、例えば南京事件否定論が非正統的な主張として扱われれば扱われるほど(注3)より魅力的なものに見えてしまう、という現象が起きる。
(注3) 旧日本軍の戦争犯罪を認めることに到底積極的とは言えない日本政府も、南京事件否定論を歴史教科書に記載することは認めておらず、外務省ホームページの「歴史問題Q&A」にも「被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難」という但し書きつきながら「多くの非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています」と記載されている。
(4)声をあげる少数派
 フェミニズム、労働組合(特に日教組)、市民運動、在日韓国朝鮮人、部落解放同盟、創価学会などは恒常的なバッシングの対象である。市民運動の活動家には「プロ市民」という蔑称が奉られている。小熊英二らが「つくる会」の支持者について指摘したのと同様、少なくない「ネット右翼」が自らを「普通の人」として表象している(そしてまた、実際にもその通りであることが多いのだろう)一方で、強い被害者意識、少数派意識を示すことがある。ネット上の南京事件否定派は自らを「真実に目覚めた少数の先覚者」と規定してみたり、他方では「虐殺など無かったことは誰の目にも明らかになった」と多数派であることを誇ったりする。このような両義的な自己意識も注目に値する。
(5)刑事犯罪
 「加害者の人権より被害者の人権」を合い言葉に厳罰を主張する動き、および容疑者を在日外国人と断定する(在日外国人による犯罪を強調する)動きとが特徴的である。伊藤一長・長崎前市長が銃撃され殺害された事件でも、容疑者が在日韓国(朝鮮)人であるというデマがネット上では流布した。
 (4)と(5)からの帰結として、活動家に対する公安の微罪逮捕、別件逮捕などにはまったく問題意識をもたずむしろ「当然」であるとする。例外的に「被疑者の権利」が擁護されるのは痴漢冤罪事件のケースであるが、代用監獄などの問題を抱える日本の司法への批判というより、性犯罪の被害者へのバッシング(犠牲者非難)としての性格が顕著である。
 一見したところ「政治的」ではない話題をめぐって「祭り」が発生した事例として、心臓移植が必要な女児に海外での移植手術を受けさせるための募金活動が「死ぬ死ぬ詐欺」と呼ばれ、バッシングされたケース(2006年)がある(注4)。募金活動が「声をあげる少数派」や市民運動を連想させることに加えて、女児の両親がNHK--「ネット右翼」によれば朝日新聞同様左傾したメディアである--の職員であったことも反発の背景であったと考えられる。
(注4) 毎日新聞取材班の『ネット君臨』(毎日新聞社)が経緯を紹介している。
 もう一つ、2005年にネットをにぎわした事例として、人権擁護法案への反対運動をあげておこう。人権団体からは実効性に欠けるのではないかという批判もあったこの法案に対しては、ネット上で強い反対運動が起きた。批判の根拠として喧伝された「危惧」として、人権委員会が朝鮮総連や部落解放同盟、フェミニスト(「フェミナチ」)らによって牛耳られ、「普通の人々」の人権が侵害されるというものがあった。ヘイトスピーチによる被害の回復を目的とした法案に、ここで引用するのははばかられるようなヘイトスピーチ混じりの反対論が展開される、という笑うに笑えない事態である。人権委員の任命は国会承認人事とされていたことだけをとっても荒唐無稽な陰謀論と言わざるを得ないのだが、「声をあげる少数派」への反発、「少数者によって権益を侵害されている普通の人々」という彼らの自己意識をうかがわせて興味深い。また、コミックおよびそれに基づく二次創作の同人誌に対する表現規制への懸念から出発した反対者がこうした陰謀論をとり込んでいったケースが見られることも、「ネット右翼」現象とサブカルチャーとの結びつきをうかがわせる。


2015年2月6日金曜日

「ネット右翼」の道徳概念システム(2)

『現代の理論』(明石書店)2008年新春号に掲載された拙稿の元原稿を、許可を得て公開します。一部の表現に違いはありますが論旨に変わりはありません。なお、執筆した2007年当時の情勢を念頭に置いて書かれたものであることをご承知おきください。

 ここではいわゆる「ネット右翼」を考察の対象とするわけであるが、その可能性と意義について予備的な考察が必要である。
 というのも第一に、「ネット右翼」なる概念はネット上であまり評判がよくないからである。批判の第一点は、「ネット右翼」なるものは実体としては存在しない、というものである。ネット上の投稿は大部分が匿名で行なわれるものであり、その発言を現実の個々人へと結びつけることは実際的には不可能である。ネット上に右派的な発言が多数みられるからといってその背後に多数の右派が存在するとは言えず、まして右派組織があるとは言えない。ネット上で右派的な発言をする者が実生活において右派的な思想をもちそうした思想に基づいて行動していると考える根拠はない、というものである。関連する批判として、「ネット右翼」が「2ちゃんねる」のような特定の掲示板と安易に結びつけられて語られることへの批判がある。リベラルな見解を表明したブログなどに否定的なコメントが殺到し対応が追いつかなくなり、場合によってはブログの閉鎖に追い込まれるという、いわゆる「炎上」、特定個人や団体への批判的・嘲笑的コメントがいくつかの掲示板やブログを中心として大量に投稿され個人情報の暴露にまでエスカレートする「祭り」といった現象がマスメディアでもとりあげられたことで、「炎上するのはリベラルなブログだけではない」といった反発も起きるようになった。
 たしかに「2ちゃんねる」はマルチスレッド掲示板の集合体であり、分野ごとに「○○板」と呼ばれる掲示板があり、そこには「○○スレ」と呼ばれる多数のスレッドが含まれている。そして「板」により、また「スレ」により発言傾向に大きな違いがあるというのは事実である。またとりたてて政治的というわけではない話題をめぐって「炎上」や「祭り」が発生するのもその通りである。しかし「2ちゃんねる」のいくつかの「板」が右派的発言を多数集める「場」となっていること自体は事実であり、そうした発言の背後に個々人の思想を実体として想定しなくてもそれらの発言のロジック、そうした発言をエンカレッジする「空気」をとらえ分析することは可能である。
 第二の批判としては、そもそも右/左という分類自体がポスト冷戦の世界では有効性を失っており、「ネット右翼」なる語は陳腐なレッテル貼り以上の意味を持たない、というものである。ネットに観察されるのは「右傾化」というよりはシニシズム(注1)や「政治のサブカル化」である、といった指摘もある。この点について詳述する紙幅の余裕はないので、さしあたり次のようにだけ述べておくことにする。歴史的、地域的な文脈により右/左の対立軸が変わること、それゆえ従来の対立軸を前提とした発想では現在の政治的対立の意味を読み違えかねないことはたしかである。しかしそのことは、後述するように例えば「国家」に対する態度を大きく二つに分類することができ、それらを従来の右/左という分類と結びつけることは--より生産的な分類が提案され定着するのでない限り--十分な意味を持つだろう、ということを否定するものではない。そしてネット右翼が右翼「思想」の持ち主ではなく、手近なリソースとして右派論壇から思考の断片を借りているだけだとしても、なぜ右派的なガジェットが選択されるのか、という問題は依然として残るのである。


(注1) 北田暁大、『嗤う日本の「ナショナリズム」』、NHKブックス

 第三に、主として「ネット右翼」とされる側からの批判として、彼らは「中立」「中道」であるにすぎず、「右」に見えるのは従来の日本の言説空間が左傾していたからにすぎない、というものがある。筆者は過去数年、ネット上の右派的発言の観察をおこない、いくつかの話題については自ら対抗的な発言をしてその反応を観察してきた。その経験から判断して、強く「中立」「中道」を自称することそれ自体が「ネット右翼」のあるタイプの特徴であると筆者は考える。まず、従来の日本の言論界が左派に支配されていたというのは右派がもっとも熱心に主張することのひとつである、ということ。「ネット右翼」が好んで情報ソースとする産經新聞のワシントン駐在特別編集委員、古森義久氏が自身のブログ「ステージ風発」(http://komoriy.iza.ne.jp/)のプロフィール欄において「国際的にみれば、中道、普通、穏健な産経新聞の報道姿勢」と称しているのが象徴的である(産經新聞の報道姿勢が「国際的にみれば(…)普通」であるかどうかは、2007年夏の米下院での「慰安婦決議」をめぐる右派の主張が欧米諸国でどう評価されたかをみれば自ずから明らかであろう)。自らを「中道」と称するのはこうした主張へのコミットメントの帰結でもあるが、その他にもいわゆる「街宣右翼」への否定的なイメージがそれなりに広く共有されていること、「中立」を自称することにより自らの立場の正当化を免除される(と考えている)こと、なども理由であろう。

 では、右派論壇ではなく発言者の同定も困難な「ネット右翼」を問題にすることにはどのような意味があり得るのだろうか。紙幅の都合でここでは次の二点を指摘するに留めたい。まず第一に、不特定多数によるネット上での発言を観察対象とすることにより、出版メディア、雑誌メディアで発進される右派論壇の主張がどのように受容されているかを問題としてとりあげることができる。前出の南京事件否定論(注2)が典型であるが、ある主張が学問的な場においてその破綻を明らかにされたからといって、それを支持する者が直ちにいなくなるわけではない。論壇よりもはるかに単純化された素朴なかたちで主張が展開されるネット言説においては、右派論壇の主張のどのような点がその受容者にとって魅力的に映るのかがよりあらわになると言ってよい。前出の「原爆投下、しょうがない」発言や、藤田雄山広島県知事が広島市内で発生した在日米軍の海兵隊員による強姦事件について「朝三時に盛り場でうろうろしている未成年もどうかと思う」と発言したケースのように、現実社会では批判を予期してある程度抑制される--それゆえこれら表沙汰になったケースでは「失言」として扱われる--主張がネット上では“気軽”に行なわれる傾向があるため、本音が探りやすいということもできる。もう一つは、実社会よりも平均年齢が若いネット利用者の発言を観察することで、右派における「世代交代」がどのような論点をめぐって起きているかを知ることができる、という点である。

(注2) 南京事件否定論とその受容に関しては、『季刊 戦争責任研究』(日本の戦争責任資料センター)第58号に掲載の拙稿(共著)、「南京事件否定論とその受容の構造」を参照されたい。

 本稿の主な目的は第一点に関わるので、第二点についてはここで簡単に触れておこう。小熊英二らは「新しい教科書をつくる会」の支持者たちの間で天皇制に対する冷めた態度がみられることを指摘している(小熊英二・上野陽子、『“癒し”のナショナリズム--草の根保守運動の実証研究』、慶応義塾大学出版会)。同じことは「ネット右翼」についても言うことができ、例えば皇室典範改正問題に対するネットの関心はさほどではない(天皇制支持者の間でも女系容認派と反対派の分裂があることも一因だろうが)。日本の右派の伝統的な攻撃対象であったロシア(旧ソ連)への敵意が相対的に稀薄なのも特徴である。「有害コミック」規制や児童ポルノ法によるコミックの規制といった問題でも、ネット上では左右を超えて、サブカルチャーへのコミットメントを通じた合意(規制反対、という主旨での)がある程度成立しているのを観察することができ、年配の保守派の性道徳意識との間に乖離があることをうかがわせる。

2015年2月5日木曜日

「ネット右翼」の道徳概念システム(1)

『現代の理論』(明石書店)2008年新春号に掲載された拙稿の元原稿を、許可を得て公開します。一部の表現に違いはありますが論旨に変わりはありません。なお、執筆した2007年当時の情勢を念頭に置いて書かれたものであることをご承知おきください。

 いわゆる「ネット右翼」について考えるうえで示唆的な二つの出来事に言及することから始めたい。
 2007年5月、読売テレビが制作する番組「たかじんのそこまで言って委員会」において、出演者の一人橋下徹弁護士が光市母子殺害事件の弁護団に対する懲戒請求を行なうよう、視聴者にアピールする発言を行なった。その後日弁連によれば4000件を超える懲戒請求が行なわれ、弁護団のうち4人が橋本弁護士に対して損害賠償請求訴訟を起こすという事態になっている。懲戒請求を呼びかける橋下弁護士の発言はネットのあちこちで引用され、番組を録画した動画が「Youtube」や「ニコニコ動画」といったサービスを通じてアップロードされた。掲示板やブログなどで橋下弁護士を支持する発言が多数なされ、インターネット上では「懲戒請求テンプレート」なるものが公開されてもいる。この橋下発言を支持する意見の要点の一つは、差し戻し審における弁護団(被告)の主張が「荒唐無稽」であり、「遺族感情」への配慮を欠く、というものであった。
 もう一つは2007年11月2日、東京地裁が下した判決である。これは亜細亜大学の東中野修道教授が著書『「南京虐殺」の徹底検証』(展転社、1998年)において、南京大虐殺の生存者であり証言者として知られている中国人女性、夏淑琴さんを被害者とは別人、すなわち偽の被害者、証言者であると記述し名誉を毀損したとして、夏さんが著者と出版社に対し損害賠償を請求した訴訟である。判決は、夏さんを「別人」と主張するに至る東中野の論拠が「学問研究の成果に値しない」と評価、訴訟費用などをあわせ400万円の支払いを命じた。ところで、この東中野修道を出演させ自説を述べさせ、南京事件否定論の宣伝に一役買ったテレビ番組がある。ほかならぬ「たかじんのそこまで言って委員会」である。この出演シーンもネットで繰り返し言及され、動画がアップロードされ、ネット上の南京事件否定派に力を与えてきた。
 刑事犯罪とその処罰をめぐる問題、そして歴史認識問題(特に旧日本軍の戦争犯罪をめぐる問題)の二つが「ネット右翼」の好む話題の代表であるということもあるが、この二つの出来事を最初にとりあげたのは、ここに右派のメンタリティに関する興味深い--こうした言動を見慣れていれば自明のように思えるが、しかし掘り下げて考えてみれば注目すべき--ある特徴をみてとることができるからである。一方では刑事被告人の弁護団が「遺族感情」に配慮することを要求しつつ、他方では被害者・遺族(夏さんは家族のほとんどを殺害された被害者遺族でもある)の感情を傷つける主張を公然と行なう者を支持しうるのはなぜか? もちろん、この疑問の一部は「排外主義的ナショナリズム」や「中国人への差別意識」「中華人民共和国への敵意」などによって説明可能である。しかし沖縄戦における「集団自決」についての教科書検定問題や、原爆投下をめぐる久間元防衛大臣の発言(およびこれらについてネット上で行なわれた膨大な発言)を、あるいは少しさかのぼってイラク人質事件に際して三人の人質(およびその家族)に向けられた非難を考えれば、右派は自国の戦争被害者に対しても懐疑的・冷笑的な態度をとることが少なくないことがわかる。あるいは右派の態度を「欺瞞」「ダブルスタンダード」とみなし、倫理的に断罪すれば足りるとする考え方もあろう。これについてもそうした一面があることは否定しないが、本稿ではこうした現象を「ダブルスタンダード」ではなく、右派にとっては首尾一貫した立場であるとする見方を追求してゆくことにする。現在の日本社会は歴史的な比較においても国際比較においても、刑事犯罪に関してきわめて安全な社会であるにもかかわらず、2004年に行なわれた「基本的法制度に関する世論調査」では8割が死刑存置を支持している。こういった事態に正面から取り組むためには、保守派、右派のロジックを矮小化することなく正確に理解することが必要だと思われるからである。


2015年2月1日日曜日

「朝鮮人虐殺から『在特会』への記憶の連鎖」

『週刊金曜日』第957号(2013年8月30日号)に掲載された拙稿「朝鮮人虐殺から『在特会』への記憶の連鎖」の元原稿を、同誌の許可を得て公開いたします。雑誌掲載分とは一部の表現が異なっていること、また2013年8月時点での認識に基づく記事であることをご承知おきください。


関東大震災朝鮮人虐殺から排外デモまで—変わらない統治者のまなざし


 在日コリアンへのヘイトスピーチを街頭で叫んできたネット右翼、自称「行動する保守」諸団体への社会的関心が今年に入ってから高まっている。こうした変化それ自体は歓迎すべきことであるが、その一方で懸念すべきことも少なくない。

日本政府の「排外デモ」観

 本稿で問題にしたいのは、安倍内閣や警察当局が排外デモにむけるまなざしである。五月七日に参議院予算委員会でヘイトスピーチへの認識を問われた安倍首相は、日本人は「和を重んじる」国民であったはずだ、などと答弁した。また七月一日に韓国外相と会談した岸田文雄外相は、新大久保などでのヘイトスピーチへの対処を求められて「法秩序を守っていく」と返答したと報じられている。ヘイトスピーチは「和」や「秩序」を乱すふるまいだというわけである。警察の警備方針も「行動する保守」側と反対する市民側とを分断して街頭の「秩序」を維持することを最優先したものである。こうした警備方針からすれば、排外デモもそれに反対する行動も等しく「秩序」を脅かす要因として扱われる。警察のまなざしは、六月一六日の新大久保でのデモに際して、喧嘩両成敗といわんばかりに「行動する保守」側、カウンター側の双方から四名ずつ逮捕したことに象徴的にあらわれている。

虐殺をうんだ「不逞鮮人」視

 ここで私たちが想起すべきなのは、関東大震災時の朝鮮人虐殺の背景として、「不逞鮮人」を秩序の撹乱者とする当時の統治者たちのまなざしがあったことである。震災発生をうけた戒厳令宣告時の内務大臣水野錬太郎と警視総監赤池濃はいずれも三・一独立運動直後の朝鮮半島で朝鮮総督府の官僚として治安行政に携わってきた人物であった。震災後に発生し虐殺を生んだデマは、治安当局の「不逞鮮人」イメージを具現化したものに他ならなかったのである。

 現代の治安行政もまた在日外国人に同じようなまなざしを向けていることは、二〇一〇年一〇月にインターネットに流出した警視庁公安部の捜査資料(在日イスラム教徒を対象としたもの)などからもうかがえる。インターネット上で朝鮮学校を「スパイ養成学校」呼ばわりする発言や「在日の犯罪」についてのデマが多数見られることもまた、「不逞鮮人」視が決して過去のものでないことを示していると言えるだろう。


歴史修正主義と排外主義

 「不逞鮮人」とは植民地支配を甘受しない朝鮮人に貼られたレッテルであるが、植民地支配を正当化する勢力は朝鮮人虐殺についても歪曲や正当化を試みている。『関東大震災—「朝鮮人虐殺」の真実』(工藤美代子、産経新聞出版、二〇〇九)(注)が“正当防衛”説を唱えているのがその一例だ。同書を批判した山田昭次・立教大学名誉教授は工藤が「司法省をはじめとする当時の官憲の態度」を共有していることを指摘し、さらに工藤のような「思想動向」は「行動する保守」諸団体の排外主義的活動や高校無償化からの朝鮮学校の排除として現れている、としている(『世界』、二〇一〇年一〇月号、岩波書店)。

 実際、「行動する保守」の韓国・朝鮮人観の根底にあるのは、“彼らは朝鮮半島を近代化した植民地支配を逆恨みしている”という意識である。ここには歴史修正主義がレイシズムや排外主義を正当化するという構造がある。だが周知の通り、植民地支配正当化論はこの国の統治者たちがしばしば漏らす本音でもある。こうした政府のもとで警察当局が「秩序」維持の姿勢を強調していることに対して、私たちは警戒を緩めるべきではないし、「秩序」ではなく「人権」の観点から排外デモに対峙してゆく必要があるだろう。


(注)その後、加藤康雄名義で書名も『関東大震災「朝鮮人虐殺」はなかった! 』と改めてワックから刊行されている。

2015年1月30日金曜日

「否定論は人間の尊厳にかかわる」

『週刊金曜日』第890号(2012年4月6日号)に掲載された拙稿、「否定論は人間の尊厳に関わる」の元原稿を同誌の許可を得て公開します。雑誌掲載版とは一部の表現が異なっておりますが論旨に違いはありません。なお、本稿は2012年2月20日に、河村たかし・名古屋市長が「いわゆる南京事件はなかったのではないか」と発言したのをうけて執筆したものです。

河村「南京事件否定」発言の背景

 河村たかし・名古屋市長の「いわゆる南京事件はなかったのではないか」という発言は、まったく驚くに値しないものだ。彼は2009年9月にも名古屋市議会で今回と同趣旨の発言を行なっていたし、さらに衆議院議員時代の2006年にも、同様の論法で政府に南京事件の否認を迫る質問主意書を提出(注)していたからである。

(注) 当該の質問主意書はこちらで閲覧できる。

 驚くべきはむしろ、このような主張を公然と述べる政治家が政令指定都市の市長に当選し、職にとどまり続けていること、そして元首相を含む国会議員や自治体の首長らが公然と河村発言への支持を表明することができた、ということの方なのだ。石原都知事が記者会見で河村発言への支持を表明した他、安倍晋三をはじめとする複数の国会議員、上田清司・埼玉県知事らは河村発言を支持する集会(「新しい歴史教科書をつくる会」主催)にメッセージを寄せ、衆議院議員で「百人斬り」訴訟の原告代理人でもあった稲田朋美は登壇者として集会に参加している。欧米の公人がホロコーストを否認する発言をすればどのような事態になるか、ご想像いただきたい。

 だがこの社会のマス・メディアの大半は、この驚くべきことにきちんと驚いていないのが実情だ。河村市長が勝利した市長選に際して、彼が南京事件否定論者であることに問題意識をもった報道が果たしてどれだけあっただろうか? いちおうは河村発言と見解を異にする旨を表明した日本政府だが、野田内閣にはもう一人の南京事件否定論者が入閣している。よりにもよって拉致問題担当相を務める松原仁である。だがマスメディアはこうした事実にどれだけ注意を払っていただろうか?


 以下では「河村発言」の背景にあるこの社会の問題点について考えてみたい。


なぜ否定論がいつまでも繰り返されるのか?

 河村市長による大虐殺否定の“根拠”なるものに目新しいものは一つもない。いずれも学問的な検証にはおよそ耐えないものでしかない。紙幅の都合で、ここでは安倍内閣時代に始まった「日中歴史共同研究」においても「虐殺はなかった」説が一顧だにされなかった(注)事実を指摘するに留める。

(注)共同研究において日本側座長を務めた北岡伸一氏の「『日中歴史共同研究』を振り返る」(『外構フォーラム』261号、2010年4月)を参照されたい。なおこの一文は『戦争を知らない国民のための日中歴史認識』(笠原十九司編、勉誠書房、2010年)に付録・参考資料として収録されており、南京事件についての共同研究の認識は同書235ページに示されている。

 しかし南京事件否定派の目的が学問的な土俵での勝利ではなく、政治的な土俵での勝利——歴史教科書から南京事件の記述を排除することなど——であるがゆえに、彼らは決着済みの問題を執拗に蒸し返す。右派メディアが頻繁に南京事件をとりあげるのはそのためである。

 例えば月刊誌『正論』は河村発言に先立つ2012年の2月号、3月号に「虐殺はなかった 南京の平穏を証明するアメリカ人宣教師たちの記録」(上、下)と題する記事を掲載している。また、南京事件の否定を目論んだ映画『南京の真実』三部作(現時点で完成しているのは第一部のみ)の監督である水島総・チャンネル桜社長の連載「映画「南京の真実」製作日誌」は2007年の10月号から最新号に至るまで続いている。さらに、昨年6月発売の『別冊正論』第15号にも、藤岡信勝をはじめとする複数の南京事件否定論者が寄稿し、南京大虐殺は中国共産党の宣伝の産物である、といった趣旨の否定論を展開している。

 加えて、かつて雑誌『マルコポーロ』にホロコーストを否定する記事を掲載した過去を持つ花田紀凱が編集長を務める月刊誌『WiLL』でも12年2月号から「誰が「南京大虐殺」を捏造したか」と題する新連載が始まっている。南京事件否定論には書き手がおり、掲載するメディアがあり、金を出す読者がいるわけだ。

 他方、これら右派メディア以外の媒体で南京事件がとりあげられることは、河村発言のような事態でも起きない限り、きわめて稀である。決着済みの問題はとりあげない、というのはメディアの姿勢として理解できなくもない。しかしその結果、南京事件否定派の発言は盛んに発信されるのに対して、否定派を批判する発言がマスメディアでとりあげられる機会は遥かに少ない、という不均衡が生じてしまっている。

 このような不均衡がなにをもたらすか? 多くの市民は南京事件についての基本的な知識に触れる機会をもたないまま、否定派の発言に晒され続ける、という事態である。それゆえに、「30万人もの非武装の中国市民を大虐殺した、いわゆる南京事件はなかった」といった河村市長の姑息な釈明——南京事件の被害者は事件当時から一貫して捕虜・敗残兵および非戦闘員の双方と認識されている——の問題点が広く認識されずにまかり通ってしまうのである。


マスコミと知識人の責任

 歴史学的観点からは破綻が明らかな否定論が正面から批判されることもないまま、繰り返し登場するという状況を生み出している要因はいくつかあるが、ここでは二つに絞って指摘しておきたい。

 第一に、河村発言をめぐる報道においても露呈していたように、日本のマスメディアの多くは南京事件否定論が人間の尊厳に関わる事柄だという問題意識を欠いている。そうなると南京事件は「日中間の紛争の種」あるいは「右翼と左翼が争っている話題」という枠組みでしか捉えられなくなってしまう。遺族感情を盾に光市母子殺害事件の弁護団を誹謗した弁護士を人気政治家に仕立て上げたこの社会のメディアは、南京事件否定論が犠牲者の尊厳を毀損し、遺族感情を傷つけるものだという点をきちんと批判できずにいる。「犠牲者数については諸説ある」などといった注釈をお約束のように付け足すことで、「論争」の局外に留まることに汲々としているのだ。

 第二に、歴史学の成果を無視する南京事件否定論はあらゆる学問的な知への挑戦でもあるというのに、いわゆる知識人たちにそうした危機意識は希薄である。例えばデリダ研究者・評論家の東浩紀は大塚英志との対談集『リアルのゆくえ』(講談社現代新書)において、「ぼくは南京虐殺はあったと「思い」ますが」と断りつつも、自分は「ポストモダニスト」であるから「歴史の問題すら解釈次第」だという立場をとるとし、具体例として南京事件論争をひきあいに出している。もし東が知識人として真剣に「歴史の問題すら解釈次第」という立場にコミットしているなら、なぜ彼はホロコーストの有無も「解釈次第」だと言わなかったのか。欧米の言論状況を一般人よりもよく知りうる立場にある東なら、その方がより挑発的、挑戦的な(ただし知識人生命を賭した)発言になったであろうことを知らないはずはない。東が南京事件を利用したのは、ホロコースト否定論に対して毅然とした態度をとることが求められる欧米社会とは異なり、日本では南京事件否定論に甘い態度をとったところでほとんど問題視されないことを知っているからである。対談では大塚が「南京虐殺があると思っているんだったら、知識人であるはずの東がなぜそこをスルーするわけ?」などと厳しく追及しているが、論壇全体としては大塚のような姿勢を示す論者は少数派であり、自説を展開する際に南京事件(論争)を利用するような振る舞いをする知識人は東一人ではない。
 「人間の尊厳」という視点を欠き、南京事件を「日中間、左右間の火種」としてのみ扱うマスメディア。ホロコーストが欧米の知識人たちにどのような知的課題をつきつけたかについては“勉強”していても足下の南京事件否定論には声を上げず、場合によっては融和的な態度すら見せる知識人たち。果たすべき責任を負った両者がその責任に応えない限り、今後も南京事件否定論は生き延び続けるだろう。