まず最初にとりあげたいのは、『帝国の慰安婦』の24ページで言及されているある写真について、である。著者はその写真について、次のように言っている。
「占領直後とおぼしい風景の中に和服姿で乗り込む女性。中国人から蔑みの目で見られている日本髪の女性」。おそらくこの言葉が、あの十五年戦争における「朝鮮人慰安婦」を象徴的に語っていよう。なぜ朝鮮人慰安婦が、「日本髪」の「和服姿」で日本軍の「占領直後」の中国にいたのか。そしてなぜ「中国人から蔑みの目で見られてい」たのかも、そこから見えてくるはずだ。では「このこと」に注目するとどのように「記憶の闘い」を終わらせることができるのか。その点についての著者の考えは本書を読了しても私にはまったくわからなかったのだが、それはまた別の機会に譲ろう。いまは本書の出発点とも言える、少なくとも著者自身によって「象徴」として重視されているこの写真についてのみ述べることにしよう。
これまでの慰安婦をめぐる研究や言及は、このことにほとんど注目してこなかった。しかし、この点について考えない限り、朝鮮人慰安婦をめぐる記憶の闘いは永遠に続くだろう。(……)
さて、上記引用を読んだ方は、「和服を着て日本髪を結った朝鮮人慰安婦が、占領されたばかりの中国の街に乗り込む」場面を思い浮かべられたはずである。実はこの一節は、千田夏光氏の『従軍慰安婦』(講談社文庫、1984年。著者が参照しているのは1973年に双葉社から刊行された『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』)のうち、千田氏が毎日新聞社刊の写真集『日本の戦歴』の編集作業に携わっているときのことを記した部分に依拠している。千田氏の記述は次のようなものである。
ところがその作業の中に数十枚の不思議な女性の写真を発見したのである。兵隊とともに行軍する朝鮮人らしい女性。頭の上にトランクをのせている姿は朝鮮女性がよくやるポーズである。占領直後とおぼしい風景の中に和服姿で乗り込む女性。中国人から蔑みの目で見られている日本髪の女性。写真ネガにつけられている説明に“慰安婦”の文字はなかった。が、この女性の正体を追っているうち初めて“慰安婦”なる存在を知ったのであった。講談社文庫版では259ページ。下線部は朴裕河氏が引用に際して傍点を振った部分である。
さて、お気づきになられたであろうか? この千田氏の記述を読んだ後で改めて朴氏の記述を読めば、彼女が「日本髪、和服姿の朝鮮人女性が頭の上にトランクをのせ、兵隊とともに占領直後の中国の街を行進し、中国人から蔑みの目で見られている」写真を描写していることがわかるはずである。だが、千田氏が見たのは本当にそんな写真だったのだろうか?
まずは写真1(ここをクリック)をご覧いただきたい。「兵隊とともに行軍する」女性(写真だけではわからないが、67年版の『日本の戦歴』のキャプションでは「前進する部隊を追って黄河をわたる慰安婦たち」とされている)、「頭の上にトランクをのせている」女性が写っている。次に写真2(ここをクリック)をご覧いただきたい。和服姿、日本髪の女性が中国と思しき街を歩き、中国人と思しき男性に視線を送られている。第1の写真の女性たちは和服姿、日本髪ではなく、第2の写真の女性たちは兵隊とともに行軍しておらず、頭にトランクをのせてもいない。ここで改めて千田氏の記述を読み直していただければ、これが2枚の写真についてのものであることがお判りいただけよう。朴氏はどうやらこの2枚の写真についての記述を1枚の写真のものだと思い込んでいるようなのだ。確かに、和服姿に日本髪であれば履き物も(2枚目の女性たちのように)草履になるのが自然で、草履履きで(1枚目の女性たちのように)兵士たちとともに「行軍」できるとはちょっと思えない。
だとすると、2枚目の写真の和服姿、日本髪の女性たちが「朝鮮人」慰安婦だと考える根拠はないことになる。私の手元には1967年版の『日本の戦歴』があるが、写真に付されたキャプションによれば2枚目の写真の女性たちは「内地」からやってきたとされている。
次の2つの事情がなければ、私もこの程度のミスをあげつらおうとは思わなかっただろう。1つは、この「写真」が「あの十五年戦争における『朝鮮人慰安婦』を象徴的に語って」いるものとして、著者自身によって重視されているということ。本書の主張の根拠として重要であるとは言えないにしても、本書の着想にとっては重要なものだったはずだから、である。それだけ重視されている「写真」が実在しないとしたら?
もう1つの事情とは、本書の参考文献には毎日新聞社刊の『日本の来歴』が1965年版(『毎日グラフ』別冊)、67年版の双方とも記載されていることである。それだけでなく、本書の75ページでは、千田氏から「彼女らが部隊を追い行動するときは洋装が普通だった」「洋装といっても木綿のワンピースかスーツだったという」「これに晴れ着や身のまわりの品をつめたトランクを持ち兵隊と一緒に歩いていた」「渡江の際は褌ひとつになる兵隊の横で裾を腰までからげていたという」といった記述を引用したうえで、「実際に千田が言及した写真集には、千田の語る光景をそのまま移したような写真も収められている」とされているのである。「千田の語る光景をそのまま移したような写真」が前出1枚目の写真であることに疑いはない。朴氏はこの写真を見たうえで、なおもう1枚の写真との混同に気づいていないのである。このようなずさんさは決してこの箇所にとどまるわけではない。それが、あえてこの写真の混同についてとりあげるもう1つの理由である。
以下は余談である。1965年版の『日本の戦歴』で1枚目の女性たちの写真に付されたキャプションでは、「慰安婦」一般の説明として「朝鮮婦人が多かった」とされていたようであるが、写真の女性たちが朝鮮人であったとはされていなかったようである。67年版の『日本の戦歴』のキャプションにはそもそも「朝鮮」の2文字はない。
実は1枚目の(左側にトランクを頭にのせた女性が写っている)写真は、日本の右派が「慰安婦」問題について主張していることをフォローしている人間にはおなじみのものである。彼らは女性の笑顔が印象的なこの写真を、「朝鮮人慰安婦の待遇がよかった」ことの証拠としてしばしば持ち出すからである。しかし千田氏は「朝鮮人らしい」と述べているだけである。しかもその推定の根拠は「頭の上にトランクをのせている姿は朝鮮女性がよくやるポーズ」だということに過ぎない。「頭の上にのせるポーズ」は朝鮮に限らず女性が重い荷物を運ぶような労働に従事する社会ではよく見られるものだし、さらに言えばこの女性たちは川を徒歩で渡っているところであるから、単に荷物が濡れないように頭にのせていただけかもしれない。キャプションによれば写真が撮影されたのは38年6月、日中戦争が全面化してからまだ1年たたない時期であることを考えれば、1枚目の女性が朝鮮人であるという推定もさほど蓋然性のあるものとは思えない。右派は、自分たちにとって気に入らない千田氏の錯誤については好んで指摘するが、あやふやな推定であっても自分たちにとって都合のよい場合にはそのあやふやさを看過するようである。
追記(2015年3月23日)
1965年刊行の『毎日グラフ』別冊の方の『日本の戦歴』も入手することができたので、それぞれについて上記2枚の写真のキャプションを紹介したい。まず写真1の65年版キャプションは以下の通り。
次に同じ写真の67年版キャプションは以下の通り。いずれのキャプションでも、写真の女性たちについて直接「朝鮮人慰安婦」であるとする記述はない。
写真2の65年版キャプションは以下の通り。
67年版キャプションは以下の通りである。
また、二人の中国人男性の表情もご覧いただこう。「蔑みの目」と断定しうるようなものかどうか、ご確認いただきたい。