2015年2月6日金曜日

「ネット右翼」の道徳概念システム(2)

『現代の理論』(明石書店)2008年新春号に掲載された拙稿の元原稿を、許可を得て公開します。一部の表現に違いはありますが論旨に変わりはありません。なお、執筆した2007年当時の情勢を念頭に置いて書かれたものであることをご承知おきください。

 ここではいわゆる「ネット右翼」を考察の対象とするわけであるが、その可能性と意義について予備的な考察が必要である。
 というのも第一に、「ネット右翼」なる概念はネット上であまり評判がよくないからである。批判の第一点は、「ネット右翼」なるものは実体としては存在しない、というものである。ネット上の投稿は大部分が匿名で行なわれるものであり、その発言を現実の個々人へと結びつけることは実際的には不可能である。ネット上に右派的な発言が多数みられるからといってその背後に多数の右派が存在するとは言えず、まして右派組織があるとは言えない。ネット上で右派的な発言をする者が実生活において右派的な思想をもちそうした思想に基づいて行動していると考える根拠はない、というものである。関連する批判として、「ネット右翼」が「2ちゃんねる」のような特定の掲示板と安易に結びつけられて語られることへの批判がある。リベラルな見解を表明したブログなどに否定的なコメントが殺到し対応が追いつかなくなり、場合によってはブログの閉鎖に追い込まれるという、いわゆる「炎上」、特定個人や団体への批判的・嘲笑的コメントがいくつかの掲示板やブログを中心として大量に投稿され個人情報の暴露にまでエスカレートする「祭り」といった現象がマスメディアでもとりあげられたことで、「炎上するのはリベラルなブログだけではない」といった反発も起きるようになった。
 たしかに「2ちゃんねる」はマルチスレッド掲示板の集合体であり、分野ごとに「○○板」と呼ばれる掲示板があり、そこには「○○スレ」と呼ばれる多数のスレッドが含まれている。そして「板」により、また「スレ」により発言傾向に大きな違いがあるというのは事実である。またとりたてて政治的というわけではない話題をめぐって「炎上」や「祭り」が発生するのもその通りである。しかし「2ちゃんねる」のいくつかの「板」が右派的発言を多数集める「場」となっていること自体は事実であり、そうした発言の背後に個々人の思想を実体として想定しなくてもそれらの発言のロジック、そうした発言をエンカレッジする「空気」をとらえ分析することは可能である。
 第二の批判としては、そもそも右/左という分類自体がポスト冷戦の世界では有効性を失っており、「ネット右翼」なる語は陳腐なレッテル貼り以上の意味を持たない、というものである。ネットに観察されるのは「右傾化」というよりはシニシズム(注1)や「政治のサブカル化」である、といった指摘もある。この点について詳述する紙幅の余裕はないので、さしあたり次のようにだけ述べておくことにする。歴史的、地域的な文脈により右/左の対立軸が変わること、それゆえ従来の対立軸を前提とした発想では現在の政治的対立の意味を読み違えかねないことはたしかである。しかしそのことは、後述するように例えば「国家」に対する態度を大きく二つに分類することができ、それらを従来の右/左という分類と結びつけることは--より生産的な分類が提案され定着するのでない限り--十分な意味を持つだろう、ということを否定するものではない。そしてネット右翼が右翼「思想」の持ち主ではなく、手近なリソースとして右派論壇から思考の断片を借りているだけだとしても、なぜ右派的なガジェットが選択されるのか、という問題は依然として残るのである。


(注1) 北田暁大、『嗤う日本の「ナショナリズム」』、NHKブックス

 第三に、主として「ネット右翼」とされる側からの批判として、彼らは「中立」「中道」であるにすぎず、「右」に見えるのは従来の日本の言説空間が左傾していたからにすぎない、というものがある。筆者は過去数年、ネット上の右派的発言の観察をおこない、いくつかの話題については自ら対抗的な発言をしてその反応を観察してきた。その経験から判断して、強く「中立」「中道」を自称することそれ自体が「ネット右翼」のあるタイプの特徴であると筆者は考える。まず、従来の日本の言論界が左派に支配されていたというのは右派がもっとも熱心に主張することのひとつである、ということ。「ネット右翼」が好んで情報ソースとする産經新聞のワシントン駐在特別編集委員、古森義久氏が自身のブログ「ステージ風発」(http://komoriy.iza.ne.jp/)のプロフィール欄において「国際的にみれば、中道、普通、穏健な産経新聞の報道姿勢」と称しているのが象徴的である(産經新聞の報道姿勢が「国際的にみれば(…)普通」であるかどうかは、2007年夏の米下院での「慰安婦決議」をめぐる右派の主張が欧米諸国でどう評価されたかをみれば自ずから明らかであろう)。自らを「中道」と称するのはこうした主張へのコミットメントの帰結でもあるが、その他にもいわゆる「街宣右翼」への否定的なイメージがそれなりに広く共有されていること、「中立」を自称することにより自らの立場の正当化を免除される(と考えている)こと、なども理由であろう。

 では、右派論壇ではなく発言者の同定も困難な「ネット右翼」を問題にすることにはどのような意味があり得るのだろうか。紙幅の都合でここでは次の二点を指摘するに留めたい。まず第一に、不特定多数によるネット上での発言を観察対象とすることにより、出版メディア、雑誌メディアで発進される右派論壇の主張がどのように受容されているかを問題としてとりあげることができる。前出の南京事件否定論(注2)が典型であるが、ある主張が学問的な場においてその破綻を明らかにされたからといって、それを支持する者が直ちにいなくなるわけではない。論壇よりもはるかに単純化された素朴なかたちで主張が展開されるネット言説においては、右派論壇の主張のどのような点がその受容者にとって魅力的に映るのかがよりあらわになると言ってよい。前出の「原爆投下、しょうがない」発言や、藤田雄山広島県知事が広島市内で発生した在日米軍の海兵隊員による強姦事件について「朝三時に盛り場でうろうろしている未成年もどうかと思う」と発言したケースのように、現実社会では批判を予期してある程度抑制される--それゆえこれら表沙汰になったケースでは「失言」として扱われる--主張がネット上では“気軽”に行なわれる傾向があるため、本音が探りやすいということもできる。もう一つは、実社会よりも平均年齢が若いネット利用者の発言を観察することで、右派における「世代交代」がどのような論点をめぐって起きているかを知ることができる、という点である。

(注2) 南京事件否定論とその受容に関しては、『季刊 戦争責任研究』(日本の戦争責任資料センター)第58号に掲載の拙稿(共著)、「南京事件否定論とその受容の構造」を参照されたい。

 本稿の主な目的は第一点に関わるので、第二点についてはここで簡単に触れておこう。小熊英二らは「新しい教科書をつくる会」の支持者たちの間で天皇制に対する冷めた態度がみられることを指摘している(小熊英二・上野陽子、『“癒し”のナショナリズム--草の根保守運動の実証研究』、慶応義塾大学出版会)。同じことは「ネット右翼」についても言うことができ、例えば皇室典範改正問題に対するネットの関心はさほどではない(天皇制支持者の間でも女系容認派と反対派の分裂があることも一因だろうが)。日本の右派の伝統的な攻撃対象であったロシア(旧ソ連)への敵意が相対的に稀薄なのも特徴である。「有害コミック」規制や児童ポルノ法によるコミックの規制といった問題でも、ネット上では左右を超えて、サブカルチャーへのコミットメントを通じた合意(規制反対、という主旨での)がある程度成立しているのを観察することができ、年配の保守派の性道徳意識との間に乖離があることをうかがわせる。