2015年2月21日土曜日

『週刊金曜日』2月6日号掲載拙稿への補足(2)

 『産経新聞』の連載「歴史戦」の第9部が2月15日の一面トップで始まったことで少し間が空いてしまいましたが、『週刊金曜日』の1026号(2月6日号)に掲載された拙稿への補足の続きです。今回は、植村隆氏へのバッシングのもう一つの焦点である、1991年12月25日付の記事について。こちらについても金学順さんが「キーセン学校」に通っていたことなどを書かなかったことが「捏造」だとされています。
 こちらの記事が執筆された時点では金学順さんを支援していたのが太平洋戦争犠牲者遺族会ですから、その点だけをとれば植村氏と義母との関係を根拠とした「捏造」主張は成立する余地があります。その代わり、この時点では金学順さんに関する情報が一部の支援者だけが知りうるものではなく、訴状や記者会見での発言を通じてオープンになっているという事情があります。では、他紙は金学順さんについてどう報じていたのでしょうか?


 

写真はいずれも1991年12月6日の『読売新聞』夕刊紙面より。太平洋戦争犠牲者遺族会による日本政府の提訴を伝える記事ですが、金学順さんについて書かれているのはこれだけです。「キーセン学校」のことも書かれていなければ「養父」のことも書かれていません。いずれも訴状には書かれていることです。なぜ『読売』のこの記事は「捏造」だと非難されないのでしょうか?
 多くの情報から限られた紙面にどれを掲載するかは、各記者や各紙のニュース価値に関する判断によって決まります。その判断において、『朝日』ないし植村氏が他紙と大きく違っていたという事実はないわけです。金学順さんが「慰安所」に到着して「しまった」と思ったのは「養父」とは別れた後のことです。金学順さんの訴えは、それ以降始まった日本軍「慰安所」での被害に関するものですから、「それ以前」の事柄に高いニュース価値を見出さなかったのは至極当然のことです。
 逆に「慰安所」到着以前の事情に日本の右派が執着していることは、性暴力被害に関する彼らのバイアスを反映しているのです。