2015年2月13日金曜日

『週刊金曜日』2月6日号掲載拙稿への補足(1)

 『週刊金曜日』の1026号(2月6日号)に掲載された拙稿は、元『朝日新聞』記者の植村隆さんが『週刊文春』を発行する文藝春秋社ほかを提訴したことに対する右派メディア上の反応をとりあげたものですが、右派メディアが口を揃えるかのように主張しているのが「言論人ならなぜ言論で反論しないのか?」ということでした。このような反応は、植村氏が元新聞記者であり現在も非常勤ながら大学教員であるため、提訴前から予想していたものです。そんなに「言論」の場での決着を望むなら、『週刊文春』は「論争で負けた場合には西岡力氏と連帯して植村さんの遺失利益を全額補償する」とでも宣言すればいいと思うのですが。

 一見するともっともらしいこの主張は、1月26日に『朝日新聞』を提訴した原告団の中に多数の言論人が含まれていることですっかり説得力を失ってしまいましたが、記事中で私が強調したかったポイントはむしろ、「歴史修正主義者に言論の場での反論をすることに意味があるのか?」というものでした。この点について、多少補足しておきます。植村さんが書いた記事に関して右派が攻撃の対象としているのは「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」という記述などに見られる、いわゆる「慰安婦と挺身隊の混同」、それから金学順さんが「キーセン学校」に通っていた経歴を書かなかったこと、という2点です。これら2つがいずれも、植村さんの義母である梁順任さんが関わっていた訴訟を有利にするための「捏造」だというわけです。

 ここで関連する出来事の時系列を確認しておきましょう。


  • 1991年8月10日 植村記者(当時)が韓国挺対協を介して金学順さんの証言テープを聴取
  • 1991年8月11日 『朝日新聞』大阪本社版に記事掲載(東京本社版は翌11日に短縮版を掲載。したがって縮刷版には11日の記事は載っていません。)
  • 1991年9月19日 梁順任さんと金学順さんが初めて対面。ただしこの時点では「あいさつ」をしただけ。
  • 1991年11月25日 植村記者が弁護団による金学順さんへの聞き取りに同行、取材
  • 1991年12月6日 金学順さんら太平洋戦争犠牲者遺族会が日本政府を提訴
  • 1991年12月25日 金学順さんについての植村記者の記事が『朝日新聞』大阪本社版に掲載

梁順任さんが関わっているのは挺対協ではなく太平洋戦争犠牲者遺族会ですから、まず8月11日の記事に関しては「義母の訴訟のため……」という主張が成立する余地がありません。にもかかわらず、『文藝春秋』の本年1月号に掲載された植村さんの手記に関して西岡力氏は次のような弁明をしています(『正論』2月号)。
 確かに私は、植村氏が説明をしない前には、金氏に関する情報提供も梁氏が行ったのではないかと考え、そのように書いて来た。しかし、それは推量であって批判ではない。私が批判しているのは、利害関係者が捏造記事を書いてよいのかというジャーナリズムの倫理だ。植村氏と朝日はその点について答えていない。言論による論争が必要な所以だ。
「推量」だったら「批判」じゃないというのも珍妙な論理ですが、そもそも8月11日の記事が出た時点では植村さんは金学順さんの訴訟に関して「利害関係者」ではないわけです。にもかかわらず、西岡氏は8月11日の記事に関する自説を撤回していません。これ以上なにを「言論」によって反論すればいいのでしょうか?
 他方、12月25日の記事が出た時点ではすでに訴状によって金学順さんが「キーセン学校」に通っていたことは誰でも知りうることになっており、植村さんが記事に書かなかったからといって隠蔽できるわけではありません。そして「キーセン学校」云々に触れない記事は他紙にもあったのですから、「捏造」というのは当たらないわけです。この点については稿を改めます。