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「ネット右翼」の道徳概念システム(4)

『現代の理論』(明石書店)2008年新春号に掲載された拙稿の元原稿を、許可を得て公開します。一部の表現に違いはありますが論旨に変わりはありません。なお、執筆した2007年当時の情勢を念頭に置いて書かれたものであることをご承知おきください。

 募金活動や(イラクでの)人質へのバッシング、「祭り」の対象となった人物への誹謗中傷や個人情報の暴露などは「ネットにおける道義心の欠如」の現われとして語られることもあるが、むしろ「ネット右翼」は過剰に道徳的であると言うことができる。募金活動への批判は「両親が自宅などの資産をまず処分すべき」といった主張を含んでいたし、イラク人質事件の際も政府の勧告を無視して危険地帯に渡航し、社会に「迷惑をかけた」ことが非難の対象となったのであった。
 とはいえ、刑事事件については「被害者(遺族)の立場」を重んじることを主張しながら、従軍慰安婦問題に関しては被害者を「嘘つき」「金目当て」呼ばわりすることができる道徳観とはいったいいかなるものなのか、理解に苦しむ…これが「ネット右翼」の行動をダブルスタンダードのような道徳的欺瞞として説明したくなる理由であろう。最後にこの点を通じて、「ネット右翼」現象を理解するための手がかりを探ってゆきたい。


 「被害者」に対する矛盾した態度と見えるものを首尾一貫した態度として解釈することを可能にするのが、アメリカの哲学者ジョージ・レイコフの「モラル(道徳)概念システム」論である(注5)。彼はアメリカにおける保守派とリベラル派との政治的対立を次のような理論的枠組みによって説明しようと試みている。

(注5) ジョージ・レイフコ、『比喩によるモラルと政治--米国における保守とリベラル--』(小林良彰・鍋島弘治朗訳)、木鐸社。また(注2)で言及した拙稿も参照されたい。

(A) 要素的な道徳的価値をみれば、保守派とリベラル派は同じ価値を共有している。しかしながら、要素的諸価値が異なるしかたで構造化されることにより、まったく異なる道徳的判断を導くことになる。

(B) 国家と市民の関係は「家族メタファー」を通じて理解されるが、保守派は「厳しい父親」を中心とした家族メタファーを用いるのに対して、リベラル派は「慈しむ両親」を中心としたメタファーを用いている。その結果、保守派のモラル概念システムでは「強さ」に関わる道徳的価値に高い優先順位が与えられ、リベラル派のモラル概念システムでは「慈しみ」に関わる道徳的価値に高い優先順位が与えられることになる。


 レイコフ自身が議論の出発点としているのは、アメリカの保守派が死刑制度を支持し人工妊娠中絶に反対する傾向がありリベラル派はその逆であること、そして双方が相手の立場を自家撞着と考えているという事態である。これまで観察してきた「刑事犯罪には厳罰を要求し、戦争犯罪には寛容」という右派の傾向(およびそれに対する左派の反応)と同じ構図であることは容易に了解できるだろう。

 レイコフの議論を日本社会に適用するにあたって必要と思われる考察をここで行なう余裕は無いが、保守派・右派が「強さ」に高い道徳的価値を認めているという仮説はこれまで述べてきたような「ネット右翼」のふるまいを非常によく説明する。「強さ」に高い優先順位を与えるモラル概念システムは、国家が「悪」に対して「力」で立ち向かうことを要求する。無垢な犯罪被害者は庇護されるべき対象であり、犯罪という「悪」には厳罰という「力」で対抗すべきである。戦争もまた国家の「力」の発露であり、選択肢として忌避されるべきではない。戦争被害は正当な選択肢たる戦争の必然的な結果(「しょうがない」)であるから、戦争被害者は無垢な刑事犯罪被害者とは区別されねばならない。場合によっては戦争被害は被害者の「弱さ」の結果であり、被害者自身が責任を負わねばならないものである(この点は、性犯罪の被害が被害者の「道徳的な弱さ」の結果であり、それゆえ被害者も責任を負わねばならない、という犠牲者非難に通じる)。南京大虐殺を構成する各種の戦争犯罪のうち、特に捕虜の殺害については具体的な殺害人数を記した旧軍の文書(戦闘詳報など)によって異論の余地なく裏付けられている。すると南京事件否定派は「捕虜殺害は必要に迫られてのことであり、違法ではなかった」と主張するのである(同様に、原爆の被害についても被害者はあきらめるべきだとされる)。敗走する敵を追撃した戦闘での捕虜殺害を正当化するという主張を受けいれることは、「弱さ」を道徳的瑕疵と結びつけるようなモラル概念システムによって可能になるのである(注6)。自らの「弱さ」ゆえに困難に陥っている者を助けることは不道徳であり(前記募金活動へのバッシングを参照)、マイノリティは自らの抱える問題を社会・国家のせいにすべきではない(「声をあげる少数派」への反発)。
(注6) ただし、武装解除され無抵抗の人間を一方的に殺害した、という虐殺の形態は「強さ」を重んじる道徳観には反する側面も持っている。「モラル概念システム」論を援用する意味の一つとして、「ネット右翼」に対してはどのような語りかたが有効であるかを考える手がかりを得られる、というものがあるだろう。
 実際、保守的なモラル概念システムの持ち主でありながら、戦争被害・戦争犯罪問題に関して左派がさほど違和感を持たないような認識を持っている人々も少なくない。戦争被害・戦争犯罪を容認・免罪する主張がネット上でより目立つとすれば、前述したシニシズムがその大きな要因であると思われる。

 国家に「強さ」を求める人々がその社会のなかで「強者」であるとは限らず、むしろ「強さ」を支持し志向する政策によって痛めつけられている当事者であることが多い…といったことは、アメリカにおけるブッシュ政権の支持層や、「小泉改革」の支持層について分析されたことであるし、「ネット右翼」についてもしばしば言われることである。レイコフの議論が示唆するのは、問題が「有権者の自己利益に関する認識」ではないという可能性である。「強さ」を重んじる政策が彼らの利益につながらないという「事実」を指摘するだけでは、「強さ」に価値をおくモラル概念システムの結論を変えさせるに十分ではない、という示唆をここから得ることができるだろう。
 自らを「弱者」として表象することは彼らのモラル概念システムにとって基本的に困難である。弱いことが道徳的に許容されるのは、子どものように自らを守る力をもたない者だけである。それゆえ彼らが自らの弱さを認める際には「連合国により武装解除され、左傾マスコミによって洗脳された結果、反日勢力に対抗できなくなっている」といった陰謀論的な認識枠組みが発動されやすくなる。戦後長らくアメリカの圧倒的な影響力下にあり、今日では中国の経済成長によって存在感が薄らぎつつあるという日本の現状は、こうした陰謀論にとって絶好の培地なのである。

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