2015年4月7日火曜日

千田夏光氏の「時代的拘束」について

 『帝国の慰安婦』は「いわゆる『慰安婦問題』の発生後の研究や発言が、『日本軍』をめぐる過去の解釈にとどまらず、発話者自身が拠って立つ現実政治の姿勢表明になった」とし、1973年に『〝声なき女〟八万人の告発−−従軍慰安婦』(双葉社)を刊行した千田夏光氏については「そのような時代的な拘束から自由だった」であろうとしている(いずれも26ページ)。73年に書かれた本が91年以降の「時代的な拘束」をまぬがれているのは当然であり、またそれゆえに一定の意義を持つであろうことは確かだろうが、逆に千田氏は千田氏で彼自身が属した時代に「拘束」されてもいたはずである。

 例えば双葉社版97-98ページ、講談社文庫版122ページには元関東軍参謀原善四郎氏と千田氏との対話の形で次のようなやりとりが記されている。
(前略) 「すると、朝鮮人女性は兵隊の精神鎮痛剤もしくは安定剤だったのですね。日本人の女性を集めることは考えなかったのですか。考えなかったとすれば、朝鮮人女性の方が集めるに罪悪感もしくは、抵抗感を覚えなくて済むからだったのですね」 「北満の駐屯地には大連(現旅大市)とか奉天(審陽)の花柳街から鞍替えして来た日本人女性もいました」 「でもそれはいわゆる慰安婦でない、つまり普通の商売女だったのではないですか」 「そうかも知れません」
花柳街から鞍替えして来た日本人女性」について「慰安婦でない、つまり普通の商売女」だとしているのが千田氏の方である。『帝国の慰安婦』でも批判されている認識、すなわち女性を「商売女」とそれ以外とに分け、「慰安婦」制度の問題点を“無垢な女性”に性的サービスを強要した点に見いだす発想を千田氏が(そしてまた原氏も)持っていたことがわかる。

 また「閑な部隊では慰安婦は軍人にとって『部隊の一員』であり、『女房みたい』に扱われていたと言う」(71ページ)という記述の根拠として『帝国の慰安婦』の70-71ページで引用されている元陸軍将校の証言(双葉版65-67ページ、文庫版84-86ページ)のうち朴裕河氏が引用していない部分には、軍医の検診を受けている「慰安婦」の様子を「高倍率の双眼鏡」で覗いていたという“思い出話”も含まれている(「楽しみといってはなんですが、検診もまた兵隊は楽しんでいました」「股をひろげているのが手に届くように見えるのです」「彼女らの検診まで、無聊をかこつ兵隊にとっては憂さを晴らす材料になっていたのでした」)。時として元軍人たちの人権意識に批判的なコメントもしている千田氏は、このエピソードについては「ここでわかるのは、兵隊たちは腰をすえる警備段階になると、彼女らを性欲の処理対象としてだけで見なくなっていたようであることだ。それにしてもユーモラスなのはこんな話であった」とコメントしている(双葉版67ページ、文庫版86ページ)。1924年生まれの故人が、検診の場面すら性的に消費される女性たちの立場を想像できていないことをあげつらっても詮無いことだ、とは言えるかもしれない。しかし性暴力についてのこのような「時代的な拘束」を被っている男たちの口から語られる「女房みたい」「部隊の一員」を現代の私たちが評価するにあたっては細心の注意を要するはずである。

 千田氏の「時代的拘束」のもう一つの例としては、日本軍が占領地から動員した「慰安婦」の徴集方法に関する認識がある(双葉版187-190ページ、文庫版227-230ページ)。「中国人、マレー人、タイ人、ビルマ人、インド人女性」ら「現地人女性」は「自由売春」「単純に金銭欲からくる意思による売春であるとしていい」とされ、「現地軍による現地人女性の強制慰安婦化はなかったのである」としてしまっているのである。むしろ占領地でこそ起こっていた直接的暴力による拉致・監禁を突き止められなかったことはやむを得ないことであったかもしれない。問題はむしろ、「現地人女性」の置かれていた立場を「敗戦後の日本女性と進駐軍とのあり方や関係とくらべて見た方がいい」という視点を持っていながらなお、「はっきり言えば自由意志による単純売春希望者の募集」であったと千田氏が考えている点にある。「彼女らにそうしなければならぬ状況をつくらせたものへの追究はここでもおくとして」(原文の傍点を下線に変更)とか「被占領地になるという状況が、こうした女性を生み出していくことも事実」だと断っている千田氏がなぜここまではっきりと「自由意志による単純売春」だと言ってしまえるのか不思議でならないが、「時代的拘束」のなせるわざということなのだろうか。

2015年4月2日木曜日

「挺身隊」を知らなかった千田夏光氏

 以前に千田夏光氏の『従軍慰安婦』を読んだのはずいぶん前のことなので、今回読み直して色々と発見があったのだが、その一つに千田氏が「挺身隊という言葉のあること」を取材を通じて「初めて知りました」と述べていることがある(講談社文庫版、148ページ)。1924年生まれで敗戦時には成人しており、戦後は新聞記者として働き、写真集『日本の戦歴』の編集にも関わった千田氏が「挺身隊」という語の存在すら知らなかった、というのである。
 
 しかし考えてみれば、戦時動員をどういう名目で、どういう法的根拠で行うかといったことは動員する側の関心事ではあっても、動員される側にしてみればそうとは限らない。むしろ「動員されること」それ自体がまずは重大なのであって、その名目やら法的根拠は二の次、三の次だというのが普通だろう。

 右派は「挺身隊」と「慰安婦」の混同についてあれこれと邪推して見せるわけだが、動員された側に取材したジャーナリストが「(女子勤労)挺身隊」が正確にはなんであるのかについてさほど関心を持たなかったとしても、特に不思議はないのではないだろうか。

2015年4月1日水曜日

かつて自分が援用した資料を否定する秦郁彦氏

 秦郁彦氏が日本軍「慰安婦」の総数についての推定を下方修正し続けてきた歴史についてはすでに多くの方が指摘している。だが3月17日に日本外国特派員協会で行った会見で、秦氏は他にも過去の自分の著作を否定するかのような発言をしている。マグロウ・ヒル社の歴史教科書に、「慰安婦」が「天皇からの贈り物である」という記述があることについて、秦氏は「国家元首に対する、あまりにも非常識な表現だろうと思います」と述べた。だが1999年の著作『慰安婦と戦場の性』は『元下級兵士が体験見聞した従軍慰安婦』(曾根一夫、白石書店、1993年)を援用し、「慰安所」に行こうとする兵士たちに上官が「大元帥陛下におかせられましては、戦地に在る将兵をおいたわりくだされて、慰安するための女性をつかわしくだされ……」と訓示した例があることを紹介している(74ページ)。秦氏はこの事例について「隊長たちは、部下兵士たちに慰安所を使わせる名分に苦労したらしい」と考察しているが、国家の一部門たる軍隊が買春施設を設けることをどう理解するかという問題に対して、まさしく「天皇からの贈り物」という「名分」を用いた将校がいたわけである。
 さらに太平洋戦争期になり「慰安婦」を船舶輸送する必要が生じた際、陸軍では42年4月頃から人事局恩賞課がその調整の窓口となったとしている(104ページ)。さすがに恩賞課の担当事項のうち「恩給、賜金」としてではなく「軍人援護、職業補導其ノ他厚生ニ関スル事項」のうちの「其ノ他厚生」としてであったが、官僚機構としての軍における「慰安婦」の位置付けが「天皇からの贈り物」に類するものとされていたことをこれは物語っているのではないだろうか?


追記:陸軍省軍事課に長く勤務した軍官僚、西浦進の回想『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』(日経ビジネス人文庫)を読んでいたら「慰安所」に関わる記述があったので紹介する。なお同書は、1947年にまとめられ小部数がタイプ印刷されたものが西浦の死後原書房から刊行され、2013年に改題のうえ文庫化されたものである。「慰安所」に関する記述は「所管争い」という小見出しがつけられた一節に含まれている(文庫版、143ページ)。わずか数行なので全文を引用する。原文のルビを( )内に移した。
 もう一つ、支那事変の初め、慰安所が初めて設けられることになった。中央における担任課はどこかということで一議論あった。軍紀風紀という点からいえば兵務課、衛生という点からは衛生課、恤兵(じゅつぺい)なれば恤兵部、何れにも属せざる事項とすれば官房、というので大分議論があったが、結局、恤兵部あたりで内地の仕事はすることになった。
なお『慰安婦と戦場の性』で人事局恩賞課が担当したとされているのは船舶輸送の調整であるから、「内地の仕事」の所管に関する上記の西浦の回想との間に齟齬があるわけではない。