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「挺身隊」を知らなかった千田夏光氏

 以前に千田夏光氏の『従軍慰安婦』を読んだのはずいぶん前のことなので、今回読み直して色々と発見があったのだが、その一つに千田氏が「挺身隊という言葉のあること」を取材を通じて「初めて知りました」と述べていることがある(講談社文庫版、148ページ)。1924年生まれで敗戦時には成人しており、戦後は新聞記者として働き、写真集『日本の戦歴』の編集にも関わった千田氏が「挺身隊」という語の存在すら知らなかった、というのである。
 
 しかし考えてみれば、戦時動員をどういう名目で、どういう法的根拠で行うかといったことは動員する側の関心事ではあっても、動員される側にしてみればそうとは限らない。むしろ「動員されること」それ自体がまずは重大なのであって、その名目やら法的根拠は二の次、三の次だというのが普通だろう。

 右派は「挺身隊」と「慰安婦」の混同についてあれこれと邪推して見せるわけだが、動員された側に取材したジャーナリストが「(女子勤労)挺身隊」が正確にはなんであるのかについてさほど関心を持たなかったとしても、特に不思議はないのではないだろうか。

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歴史修正主義は何によってそう認定されるか

 誤解されがちなのですが、歴史修正主義的な主張は「結論が通説と違うから」とか「日本軍を美化しているから」といった理由で「歴史修正主義的だ」と判断されるわけではありません。神ならぬ私たちは歴史記述それ自体だけをとりあげて「これは史実に合致している」とか「史実に反している」と判断することはできないからです。肝心なのはむしろある歴史記述(と主張されているもの)がどのような方法で導き出されているか、です。史料の取捨選択やその解釈、史料からの推論などがまったく妥当性を欠いている場合に「偽史」とか「歴史修正主義」という判断が下されるわけです。「おかしな結論」が出てくるのは「おかしな方法」が用いられているからなのです。一定の合理性を備えた方法によって導き出された歴史記述同士の対立は学術的な議論の対象になりますが、歴史修正主義は「疑似科学」の一種であって「歴史学の内部における、通説への挑戦」ではありません。
 朴裕河氏の『帝国の慰安婦』(朝日新聞出版、2014年)を徹底的に批判した鄭栄桓氏の『忘却のための「和解」』がまず焦点を当てているのも、『帝国の慰安婦』で用いられている「方法」です(『忘却のための「和解」』、195ページ)。逆にいえば、歴史修正主義批判の妥当性もまた、「方法」への批判の方法によって判断されることになります。

  私がみるところ、『忘却のための「和解」』は『帝国の慰安婦』に歴史修正主義的という評価を下すに足るだけの十分な理由があることを明らかにしています。その徹底した批判ぶりについてはぜひ『忘却のための「和解」』を読んで確かめていただきたいと思いますが、ここでは私自身が『「慰安婦」問題の現在』(三一書房、2016年)所収の拙稿(『季刊 戦争責任研究』第85号に掲載されたものを改題のうえ再録)でとりあげた事例を使って、『帝国の慰安婦』の「方法」がはらむ問題点を例証してみましょう。
  朴裕河氏は『帝国の慰安婦』104ページで「慰安婦問題を否定する人たちが、民間人が勝手に営業したと主張するのは、このような記憶が残っているからだろう」と主張しています。ここで「このような記憶」とされているのは、千田夏光氏の『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』(講談社文庫版のタイトルは『従軍慰安婦』)において元日本兵が「びっくりしたのは済南に入城した二日後に、早くも酌婦が入って来たこと…

新刊のお知らせ

 2016年6月23日に岩波書店より、山口智美さん、テッサ・モーリス−スズキさん、小山エミさんとの共著『海を渡る「慰安婦」問題――右派の「歴史戦」を問う――が刊行される予定です。一冊まるまる、右派による「歴史戦」の企てを批判的にとりあげた書籍はおそらくこれがはじめてであろうと思います。


 私が担当した第1章は、月刊右派論壇誌がこの20年間でどのように「歴史戦(歴史戦争)」言説をつくりあげてきたかを概観する内容となっております。テーマとしては昨年早川タダノリさんと共に刊行した『憎悪の広告 右派系オピニオン誌「愛国」「嫌中・嫌韓」の系譜』(合同出版)の第3、9、12章などと共通しており、実際に『憎悪の広告』執筆に用いた資料が今回も大いに役に立ちました。過去20年間の右派論壇誌の新聞広告を約140点収録した『憎悪の広告』は『海を渡る「慰安婦」問題』が描き出す右派の「歴史戦」についての具体的なイメージをつかむうえでの一助となると自負しております。新刊ともども、この機会にお手にとっていただければ幸いです。



歴史修正主義の手法に見られるパターン

 心理学者のセス・C・カリッチマンは『エイズを弄ぶ人々ー疑似科学と陰謀説が招いた人類の悲劇』(化学同人、2011年。原題 Denying AIDS: Conspiracy Theories, Pseudoscience, and Human Tradegy, 2009)においてエイズ否認主義の典型的な手法をまとめています。実はこの手法は疑似科学一般にも、さらには歴史修正主義においても見られるものです。カリッチマンは科学ジャーナリストのマイケル・シャーマーの分析に着想を得ているのですが、シャーマーはホロコースト否定論が疑似科学と同じパターンの論法を使用していることを指摘しています(『なぜ人はニセ科学を信じるのか II』、早川文庫)。以下にカリッチマンの指摘の主なものをメモしてコメントを付します。太字になっているのは原文の小見出し。
第4章  否認主義者のジャーナリズムと陰謀説
エイズをめぐる大規模な議論?(164ページ〜)
「否認主義のジャーナリストは、HIVがエイズの原因かどうかについて、公の場で公正な議論を行うことをしつこく要求する」「否認主義者から見れば、エイズ学者は真実の発覚を恐れて、HIVがエイズの原因かどうかについての議論を避けている、ということになるようだ」「一方、エイズ学者から見れば、HIVがエイズの原因かどうかという問題はすでに解決済みであり、改めて議論すれば、それを未解決と見なすことになるのだ」
コメント:河村たかし・名古屋市長が南京大虐殺否定発言の問題化後に言い訳として用いたのもこの論法。ネットにも「検証するくらいいいじゃないか」みたいな発言はゴロゴロしているが、しかしそんなことを言う人々が過去の「議論」の蓄積をきちんと参照したためしはない。
科学を宗教として描く(173ページ〜)
「否認主義には宗教的含みが無数に見られ、特に主流のエイズ学について説明する際には、しばしば宗教がかった言い方をする。エイズ学は『正統派(オーソドクシー)で、「HIV=エイズの教義(ドグマ)」を奨励し、HIVがエイズの原因かどうかに疑問を持つ科学者を「破門する」、といった具合だ」「科学を宗教のように扱うのは、科学的証拠を単なる信仰のひとつとして片づけたいからだ」(原文のルビをカッコ書きに改めた)
コメント:「正統派」といったタームは日本ではさほどポピュラーではないが、「…