秦郁彦氏が日本軍「慰安婦」の総数についての推定を下方修正し続けてきた歴史についてはすでに多くの方が指摘している。だが3月17日に日本外国特派員協会で行った会見で、秦氏は他にも過去の自分の著作を否定するかのような発言をしている。マグロウ・ヒル社の歴史教科書に、「慰安婦」が「天皇からの贈り物である」という記述があることについて、秦氏は「国家元首に対する、あまりにも非常識な表現だろうと思います」と述べた。だが1999年の著作『慰安婦と戦場の性』は『元下級兵士が体験見聞した従軍慰安婦』(曾根一夫、白石書店、1993年)を援用し、「慰安所」に行こうとする兵士たちに上官が「大元帥陛下におかせられましては、戦地に在る将兵をおいたわりくだされて、慰安するための女性をつかわしくだされ……」と訓示した例があることを紹介している(74ページ)。秦氏はこの事例について「隊長たちは、部下兵士たちに慰安所を使わせる名分に苦労したらしい」と考察しているが、国家の一部門たる軍隊が買春施設を設けることをどう理解するかという問題に対して、まさしく「天皇からの贈り物」という「名分」を用いた将校がいたわけである。
さらに太平洋戦争期になり「慰安婦」を船舶輸送する必要が生じた際、陸軍では42年4月頃から人事局恩賞課がその調整の窓口となったとしている(104ページ)。さすがに恩賞課の担当事項のうち「恩給、賜金」としてではなく「軍人援護、職業補導其ノ他厚生ニ関スル事項」のうちの「其ノ他厚生」としてであったが、官僚機構としての軍における「慰安婦」の位置付けが「天皇からの贈り物」に類するものとされていたことをこれは物語っているのではないだろうか?
追記:陸軍省軍事課に長く勤務した軍官僚、西浦進の回想『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』(日経ビジネス人文庫)を読んでいたら「慰安所」に関わる記述があったので紹介する。なお同書は、1947年にまとめられ小部数がタイプ印刷されたものが西浦の死後原書房から刊行され、2013年に改題のうえ文庫化されたものである。「慰安所」に関する記述は「所管争い」という小見出しがつけられた一節に含まれている(文庫版、143ページ)。わずか数行なので全文を引用する。原文のルビを( )内に移した。
さらに太平洋戦争期になり「慰安婦」を船舶輸送する必要が生じた際、陸軍では42年4月頃から人事局恩賞課がその調整の窓口となったとしている(104ページ)。さすがに恩賞課の担当事項のうち「恩給、賜金」としてではなく「軍人援護、職業補導其ノ他厚生ニ関スル事項」のうちの「其ノ他厚生」としてであったが、官僚機構としての軍における「慰安婦」の位置付けが「天皇からの贈り物」に類するものとされていたことをこれは物語っているのではないだろうか?
追記:陸軍省軍事課に長く勤務した軍官僚、西浦進の回想『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』(日経ビジネス人文庫)を読んでいたら「慰安所」に関わる記述があったので紹介する。なお同書は、1947年にまとめられ小部数がタイプ印刷されたものが西浦の死後原書房から刊行され、2013年に改題のうえ文庫化されたものである。「慰安所」に関する記述は「所管争い」という小見出しがつけられた一節に含まれている(文庫版、143ページ)。わずか数行なので全文を引用する。原文のルビを( )内に移した。
もう一つ、支那事変の初め、慰安所が初めて設けられることになった。中央における担任課はどこかということで一議論あった。軍紀風紀という点からいえば兵務課、衛生という点からは衛生課、恤兵(じゅつぺい)なれば恤兵部、何れにも属せざる事項とすれば官房、というので大分議論があったが、結局、恤兵部あたりで内地の仕事はすることになった。なお『慰安婦と戦場の性』で人事局恩賞課が担当したとされているのは船舶輸送の調整であるから、「内地の仕事」の所管に関する上記の西浦の回想との間に齟齬があるわけではない。