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『帝国の慰安婦』における植民地/占領地の二分法について/『帝国の慰安婦』私的コメント(4)

1. 『帝国の慰安婦』における「植民地/占領地」図式  日本軍「慰安婦」とされた女性たちの境遇が多様であったこと、その多様性をもたらす要因の一つが女性の国籍およびエスニィシティであったことは先行研究においても指摘されてきたことである。その限りでは、「植民地出身の慰安婦」と「占領地出身の慰安婦」の区別そのものは目新しいものではない。『帝国の慰安婦』の特徴は植民地/占領地という区別を強調することにより、占領地出身の「慰安婦」は「厳密な意味では『慰安婦』とは言えない」(45ページ)とまで主張するところにある。  では植民地出身の(というより朝鮮人の)「慰安婦」と占領地出身の「慰安婦」の違いとは何か? 『帝国の慰安婦』によれば、その違いは「そこで朝鮮人は『日本人』でもあった」(57ページ)こと、他民族の「慰安婦」とは異なり「〈故郷〉の役割」(45ページ)や「女房」(71ページ)としての役割、「精神的『慰安』者としての役割」(77ページ)、「〈代替日本人〉」の役割を期待されまた果たすことができ、日本人兵士との間に「『同じ日本人』としての〈同志的関係〉」(83ページ)を持っていたことだ、とされている。  朴裕河氏のこのような主張を支えているのが「〈自発の自己強制〉」(60ページ)、強制的な協力(144ページ)、といった概念である。すなわち、「構造的に誰かが国家による国民動員の〈協力者〉になるほかなかった状況こそが、〈植民地という事態〉だった」(49-50ページ)のであり、それゆえに植民地出身の「慰安婦」と占領地出身の「慰安婦」とは峻別されねばならない、というのである。 2. 「植民地/占領地」図式の観念性  このような図式の問題点の一つは、それがあまりにも観念的であるという点にある。『帝国の慰安婦』を一読すれば明らかなことだが、「慰安婦」たちの体験の「多様性」を強調する同書は同じ「植民地」である台湾の元「慰安婦」の「声」にも、また占領地の「慰安婦」として朝鮮人「慰安婦」と対照をなすはずの中国・フィリピン・インドネシア等の被害者たちの「声」にも、ほとんど関心を払っていない。普通に考えれば、『帝国の慰安婦』の中心的なテーゼの妥当性を確証するには、他地域出身の「慰安婦」の体験との比較対象が不可欠なはずである。植民地/占領地の峻別に基づく同書の主張は、朝鮮半島よりも日本の植民地…