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「感情論」というクリーシェについて

 注文していた『通州事件―日中戦争泥沼化への道』(広中一成、星海社新書)が届いたのでさっそく読み始めた。この問題について、とりわけこのタイミングで、歴史学研究者による研究の成果が一般向けに明らかにされたことの意義は非常に大きい。しかしながら「またか……」と思わされる点があったので、とりいそぎ指摘しておきたい。
 同書の帯には「不毛な感情論を排し、惨劇の全貌に迫る」という惹句が印刷されている。著者の広中氏自身も、通州事件をことさら取り上げようとする側と、ことさら取り上げることを批判する側の双方に言及したうえで、「この種の感情むき出しの『水掛け論』」とし(10頁)、「冷静で客観的な実証研究」が必要だ、としている(10-11頁)。私が問題にしたいのは、いわゆる歴史認識問題を評する際にしばしば用いられる、この冷静/感情的という二分法である。
 まず第一に、「感情論」だという批判それ自体が「実証」的でない、という問題がある。これは以前にも指摘したことがある問題なのだが、著者は批判対象とした論者たちが“感情的”であることをどうやって知ったのだろうか? 「水掛け論」としてとりあげられているのは順に岡野篤夫、本多勝一、小林よしのり、荒川章二、馳浩の各氏だが、彼らが執筆している場面を目撃したわけでもあるまい。では論そのものから「感情論」だということが読みとれるのか? しかし引用、紹介されている限りでは先の五人の議論が「感情むき出し」だとはまったく思えない。理性的(冷静)/感情的という二分法を前提として、好ましくないものを「感情」の側に分類したにすぎないように思われる。
 しかしながら、この冷静=合理的/感情的=非合理的という二分法自体がフォークサイコロジーに過ぎない。近年の情動研究ではこのような単純な二分法はのりこえられている(この点を一般向けに解説したものとしては、戸田山和久『恐怖の哲学―ホラーで人間を読む』、NHK出版新書の第3章などがある)。たしかに、非常に強い情動が非合理的な行動につながることがあるとしても、そのことは「情動を排すれば常に合理的に振る舞える」ことも「感情は常に合理的振る舞いの障害となる」ことも意味しない。「水掛け論」の原因は別に感情とは限らないのである。
 通州事件をめぐる従来の議論に問題があるというのであれば、重要なのはどこにどのような欠陥があるのかを具体的に明らかにすることだろう。フォークサイコロジーに依拠して「感情論」というレッテルを貼ることに学術的な意味があるとは思えない。
 私などはむしろ、もし通州事件をことさら焦点化しようとする人々が「感情的」なのであればそのほうがずっとよいのに、と思う。もう10年以上歴史修正主義者の主張と付き合ってきたけれども、彼らの主張の背後に強い感情を感じたことは殆どない。むしろ感じるのは冷ややかさだ。冷静/感情的の二分法を前提とし「冷静」の側に位置しようとすることによって見失われるものがあるのではないか、ということを考えてみるべきではないだろうか。




 

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