2018年11月16日金曜日

選択的懐疑主義


歴史学者D・リップシュタットとホロコースト否定論者D・アーヴィングの裁判を描いた映画『否定と肯定』において、リップシュタット側の代理人は「釣り銭を間違えるウェイター」の喩えでアーヴィングを断罪します(これは実際に法廷で行われた弁論に依拠したシーンです)。ウェイターが正直ならば客が得をするように間違えることも自分が得をするように間違えることもあるだろう。しかし常に自分が得をするように“間違えて”いるなら、それは意図的なゴマカシなのだ……というのが大意です。

同じことは日本の近現代史に関して「ただ事実を確認したいだけだ」とか「議論すら許されないなんておかしいじゃないか」などと言い出すひとについても指摘することができます。彼らの懐疑的な関心はあらゆる方向に向けられているでしょうか? 彼らは広島・長崎の原爆死没者名簿の“毎年増え続けている記載人数に懐疑の目を向けるでしょうか? 彼らはシベリア抑留中の死亡と強制労働の因果関係について法医学的な証明を要求するでしょうか? 彼らは東京大空襲で亡くなったとされる約10万人の遺体のうち、“発見”されていない約1万5千体について「議論」することを要求してきたでしょうか?

あるいはこう問うてみてもいいでしょう。彼らは「カチンの森の虐殺」が本当にソ連軍によるものであるのかどうかについての議論をすべきだと主張しているでしょうか? クメール・ルージュの犠牲者の数がはっきりしないことに疑問をいだき、大虐殺が「幻」である可能性を追及しようとしているでしょうか?

もし彼らが歴史的事実に関心を持っているなら、その懐疑精神は大日本帝国の負の側面にも正の側面にも等しく向けられるはずです。しかし彼らが大日本帝国の加害にだけ「確認」や「議論」や「検証」を要求するなら、彼らは歴史修正主義者なのです。