2015年3月28日土曜日

『帝国の慰安婦』の驚くべきアナクロニズムについて/『帝国の慰安婦』私的コメント(3)

 『帝国の慰安婦』は41ページで森崎和江の『からゆきさん』(朝日新聞社、1976年)から次のような引用を行っている。傍点を下線に改めた。
 女たちは野戦郵便局から日々ふるさとへ送金した。送られる金は、はじめのうちは一人一日百円以下は少なくて、四、五百円のものもいるというぐあいだったが、やがて国内の娼妓と同じ苦境におちいった。女たちの数がますますふえていったためである。これらの店にあがることもできない兵士や労働者たちを客とする私娼窟もふえた。(森崎、一五五頁)
 この引用の第一の問題点は、引用文中にある傍点(ここでは下線)が森崎の原文には存在しない、ということである。傍点が引用者によるものだという断り書きもない。『帝国の慰安婦』には千田夏光の著作からの引用に際しても無断で傍点を付した箇所が複数ある。いずれも、研究者にあるまじきルール違反である(注1)(注2)。
 しかし問題点はそれだけではない。著者は上記の引用に続けてこう主張している。「おそらく、軍慰安所の第一の目的、あるいは意識されずとも機能してしまった部分は、高嶺の花だった買春を兵士の手にも届くものにすることだった」、と(41ページ)。当然、読者は『からゆきさん』からの上記引用が日中戦争の全面化に近い時期のものであると考えるだろう。
 ところが、出典にあたれば『からゆきさん』の上記の記述は1905年(明治38年)、日露戦争中の大連における売買春施設に関するものであることがわかる。1937年9月以降に本格的に制度化された日本軍「慰安所」制度の「目的」なり「機能」を1905年・大連での日本軍兵士の買春事情から推測するのがナンセンスであることは歴史学の素人にとっても明白であろう。しかし『帝国の慰安婦』は「いつ・どこで」がわからないようなかたちで『からゆきさん』からの引用を行うことにより、この驚くべきアナクロニズム(時代錯誤)を隠蔽してしまっているのである。
 『帝国の慰安婦』には他にも、およそ合理的な根拠なしに「慰安所」設置の目的に関して通説を否定している箇所が存在する。それについてはまた別稿で指摘することにしたい。
注1:さらに細かいことを言うなら、引用されている段落は「女たちは……」で始まるわけではなく、その前に1センテンスが存在する。その1センテンスが省略されていることも断られていない。しかし、本書に関してこの程度の問題を指摘していたらきりがないので、以後いちいち指摘しないかもしれないことをあらかじめお断りしておく。
注2:打ち消し線部分は筆者の誤認であったので、訂正するとともに朴裕河氏に謝罪したい。詳しくは改めて付記するが、取り急ぎ訂正と謝罪まで。ただし、注1の指摘については有効である。

2015年3月25日水曜日

「朝日新聞を糾す国民会議」の訴状を読む

 現在日本軍「慰安婦」問題に関連して『朝日新聞』に対して起こされている集団訴訟のうち、もっとも多数の原告を集めているのが「朝日新聞を糾す国民会議」によるものである。私は3つの訴訟の訴状を読み比べたのだが、その内容、というよりその文体において「朝日新聞を糾す国民会議」のそれは突出して異様だ。
 訴状の「加害行為」の項には次のような一節がある。
 朝日新聞は、戦後、一貫して、社会主義幻想に取りつかれ、反日自虐のイデオロギーに骨絡みとなり、日本の新聞であるにもかかわらず、祖国を呪詛し、明治維新以来の日本近代史において、日本の独立と近代化のために涙ぐましい努力をしてきた先人を辱めることに躊躇することはない。旧軍の将兵を辱めるときは、ことさらそうである。実際のところ、明治の建軍以来、日本の軍隊は、国際法を遵守し、世界で最も軍律が厳しく道義が高かったにもかかわらずである。客観報道・事実の報道をするわけではなく、国論の分かれる問題については、「報道」ではなく「キャンペーン」を張るのが常であった。朝日新聞は、これまで、クオリティーペーパー(高級紙)、社会の木鐸などというもおこがましく、国家・国民を誤導してきたものである。
これではまるでアジビラである。裁判官がどんな顔をしてこの訴状を読むのか、見てみたいものだ。訴状は続いて訴えの原因となる13本の記事の掲載日と見出しを列挙し、こう述べている(下線は引用者)。
 先ずは、朝日新聞的思い入れたっぷりの表現で綴られた本件一連の虚報を通読されたい。赤面するか憤るか、驚倒すべきことに、有り体にいうと、これが 全部嘘なのである。
右翼的「思い入れたっぷりの表現」でこんなことを書いているので、おもわず笑ってしまった。
 「朝日新聞虚偽報道が招来した恐るべき事態」という項の最後はこう結ばれている。
 最後に、断言したい。「朝日新聞の本件一連の虚報なかりせば、今日の事態は 絶対にあり得なかった」と。
もちろん『朝日新聞』に限らずマスメディアの初期報道にはいまから見れば事実に即していないものがあったのも確かだが、他方でもし1991年の時点で、今日までに判明している史実をすべて正しく報道できていたとしたら、国際社会の日本軍「慰安婦」問題に対する評価は似たり寄ったりだったであろうことは疑いの余地がない。

2015年3月9日月曜日

『帝国の慰安婦』における「平均年齢25歳」の誤り/『帝国の慰安婦』私的コメント(2)

 『帝国の慰安婦』が「〈慰安婦=少女〉のイメージ」(64ページ)を批判するために援用している資料の一つが、有名な「日本人捕虜尋問報告 第49号」である(153ページにも資料名は記されていないが、おそらくはこの尋問報告が念頭におかれている記述がある)。もっとも、『帝国の慰安婦』巻末の参考文献には、この尋問報告も収録された『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』が挙げられているにもかかわらず、「平均年齢は二五歳」という一句が船橋洋一の『歴史和解の旅』(朝日選書)から孫引きされている。ここで朴裕河が尋問時の年齢と「慰安婦」にされた/なった時の年齢とを区別せずに論述していることについては、すでに yasugoro_2012 さんが指摘されている。しかしこれ以外にも、この資料の扱い方の問題点はいくつかある。
 まず厳密に言えば尋問報告書には「平均年齢は二五歳」ではなく「平均的な朝鮮人慰安婦は二五歳くらい」(下線は引用者)とされていること。報告書の付録に記されている20名の年齢の平均を実際に計算してみると 23.2 歳となる。さらに、「平均的な朝鮮人慰安婦」の姿を知りたいからといって算術平均をとればよいというものではない。年齢の分布に偏りがある場合、平均は必ずしもよい指標にはならない。20名の年齢の最頻値と中央値はいずれも21歳である。女性たちが集められたのが尋問の2年前だということを計算に入れれば、19歳ということになる。

 もちろん「日本人捕虜尋問報告 第49号」だけで朝鮮人「慰安婦」の全体像を捉えることはできないが、少なくともこの資料を根拠とするならば典型的な朝鮮人「慰安婦」は未成年のうちに徴集されたと判断しなければならない。この資料は『帝国の慰安婦』のテーゼを裏付けるものではなく、むしろ否定するものと言わねばならないだろう。

追記:この記事に関連してある読者の方より以下のようなご指摘をいただいたので、ご紹介させていただく。

 『帝国の慰安婦』は「証言している慰安婦たちのほとんどが一〇代に『慰安婦』になったとしているのは、この『慰安婦問題』が発生した九〇年代には、すでに一九四〇年代から五〇年も経っていたためではないだろうか。つまり九四五年の時点で二五歳以上の人たちは、この時すでに七〇歳以上になっていたわけで、当時の平均寿命からすると既に亡くなっていたか、病気になっていた可能性が高い」としている(67-68ページ)。しかしこちらのデータによれば1991年当時の韓国における女性の「平均寿命」は約76歳である。1945年の時点で25歳の人は1991年の時点では71歳である。とすると、「慰安婦」にされた/なった時点ですでに20歳を越えていた人々が1991年の時点ですでに亡くなっていた割合が、未成年で「慰安婦」にされた人々に比べればある程度高いであろうことは推認できるものの、「証言している慰安婦たちのほとんどが一〇代に『慰安婦』になったとしている」(下線は引用者)ことを「平均寿命」だけで説明できるわけでもないだろう。「慰安所」での過酷な生活が「平均寿命」に影響したことも当然考えられるが、その影響は低年齢で「慰安婦」にさせられた人ほどより大きかったであろうと一般には推測できるであろう。いずれにせよ、「平均寿命」だけを根拠にした主張の説得力は割り引いて評価されねばならないはずである。

2015年3月5日木曜日

1991年のある投書

 1991年の7月30日、すなわち植村隆氏による金学順さんに関する最初の記事が掲載されるわずか10日前ほどの『朝日新聞』(大阪本社)朝刊の「女たちの太平洋戦争」欄に、次のような投書が掲載されていた。投書の主の氏名は伏せるが当時74歳の在日コリアン男性である。
 本欄によれば「大阪M遊郭から来た慰安婦もいたから、金に買われた女性も多い」とあったが、彼女らは軍人の慰安婦になるため身を売ったのではない。年配の方なら彼女たちの境遇は理解出来ると思う。ちなみに朝鮮人の娘たちは強制連行である。    どちらにしても、この女性たちは日本軍のなぶりものにされ、慰安婦という不浄なレッテルを張られたまま使い捨てにされ、その後の詳しい消息は今も不明のようである。かろうじて生き延びた女性が今は老女となり、日本国に何人かいると聞くが、この老女たちは過去の忌まわしい出来事を語ろうとはしない。   (中略)
  時には日本人から「侵略も悪いが、侵略された国にも責任がある」と言われることがある。なるほどと思う。   たとえ朝鮮民族が討ち死にして滅亡しても、日本の侵略に立ち向かって国家を守るべきだった。  (後略)
下線は引用者。
 この投書が興味を引く理由はいくつかある。一つは、こんにち日本の右派の一部(その代表格は中山成彬元衆院議員)が日本軍「慰安婦」問題に関して主張すること、すなわち「もし本当に多数の朝鮮人女性が強制連行されていたというのなら、なぜ朝鮮人(男性)は抵抗しなかったのか?」と似たようなことを在日コリアンに向かって言う日本人が当時もいたのだな、ということがうかがえる、という点。この論理は、「後になって『勝者の裁き』だの『押しつけ憲法』などと文句を言うのであれば、本土決戦で一億玉砕しておけばよかったのに」という具合に右派に跳ね返ってくるのであるが。
 しかし私がこの投書をとりあげた一番の理由は、当時74歳だった−−ということは1910年代生まれの−男性が、この10日ほど後に掲載される記事に加えられる非難にあらかじめ反論していた、という点にある。「彼女らは軍人の慰安婦になるため身を売ったのではない」。これさえわかっていれば、金学順さんが「キーセン学校」に通っていた経歴などまったく記事にするに値しないことが了解できるだろう。
 なおこの男性が「朝鮮人の娘たちは強制連行」されたと書いているからといって、吉田清次“証言”にみられるような連行形態を思い浮かべていたとは限らない、ということにも注意が必要である。90年、91年当時の朝鮮人強制連行に関する『朝日新聞』の記事では、強制連行が「募集」「官あっせん」「徴用」とさまざまな方法で行われたことが記されていることが度々あり、かつ「村人から何人出せ」と地域共同体に圧力をかける方式や、出稼ぎで来日し土木現場を転々としているところへ「役場(市役所)から呼び出しがあった」というケース、さらには「おれたちも白い米を食おう」と言い残して日本に渡ったケースなどまで含めて「強制連行」の被害者として扱っている。
 また、「挺身隊」についても同様で、「パラオ挺身隊」として戦闘に参加した人々が集められた経緯を「挺身隊は43年ごろ、日本軍が公募。志願した29人がパプアニューギニアへ行き」としている例がある。この当時の『朝日新聞』読者なら、「(強制)連行」「挺身隊」という単語から直ちに吉田清次的な“人狩り”を想起するわけではない、ということがうかがえるだろう。