2015年8月22日土曜日

『憎悪の広告』(合同出版)、まもなく刊行です

『神国日本のトンデモ決戦生活』(合同出版/ちくま文庫)等の著書がある早川タダノリさんとの共著、『憎悪の広告−−右派系オピニオン誌 「愛国」「嫌中・嫌韓」の系譜』が合同出版より9月上旬に刊行されることとなりました。
http://www.godo-shuppan.co.jp/products/detail.php?product_id=481
全208ページで141点の図版(うち139点が右派論壇誌の新聞広告)を掲載、広告に踊るコピーを通して右派論壇の20年史を描き出そうとする試みです。
本に盛り込めなかった情報などは当ブログやツイッターなどでおいおい補足させていただく予定です。

2015年7月4日土曜日

「未来のための歴史パネル展」プロジェクトについて

今、日本では過去の侵略や加害の歴史を軽視したり、なかったことにしたりしようとする、歴史修正主義の動きがさかんになっています。テレビ、書籍、新聞、雑誌といったメディアでも、政治の場でも、過去の歴史を都合よく解釈し「日本はつねに正しかったのに、不当に攻撃されている」とする主張がよく見られます。市民会館などの公共施設でこうした意見を広めるパネル展を多くおこなっている団体もあります。こうした動きはアジアの国々や人々や、外国とのつながりを持つ、日本で暮らす人々への敵意や憎悪を煽ったり、差別と偏見を強めたりします。  私たちは、こうした状況を見過ごすことはできない、と決心しました。私たちは、人が差別されたり追放されたりする社会を望みません。人と人、国と国が対立し争い合う未来を望みません。未来は、過去の歴史をきちんと認識することによってしか開けません。多数派の人々にとって心地のよい物語だけが語られる社会になってはならないと考えます。  すべての人に開かれた歴史を知り、多くの人たちと共有するために、まず日本と韓国・朝鮮の近代史を考えるパネルを作りたいと思います。2015年の夏までに、専門家の助言も得て40枚のパネルを作り、8月を皮切りに、各地で展示をする予定です。完成したパネルを無料でお貸しし、展示の輪を広げたいと思います。できるだけ軽いパネルにして、送料を安くする工夫も考えています。  このプロジェクトの目標は日本に暮らす様々な人々と、東アジアの国々に暮らす様々な人々と、ともに歴史に向き合い、お互いの未来を考えていく場を作ることです。息の長い活動にしてゆきたいと思っています。皆様のご指導、ご協力、ご支援をよろしくお願い致します。 パネル制作費の寄付を募っています。こちらに案内記事がありますので、ごらんください。http://mirepa.tumblr.com/post/122771668626

2015年5月3日日曜日

『帝国の慰安婦』における植民地/占領地の二分法について/『帝国の慰安婦』私的コメント(4)

1. 『帝国の慰安婦』における「植民地/占領地」図式  日本軍「慰安婦」とされた女性たちの境遇が多様であったこと、その多様性をもたらす要因の一つが女性の国籍およびエスニィシティであったことは先行研究においても指摘されてきたことである。その限りでは、「植民地出身の慰安婦」と「占領地出身の慰安婦」の区別そのものは目新しいものではない。『帝国の慰安婦』の特徴は植民地/占領地という区別を強調することにより、占領地出身の「慰安婦」は「厳密な意味では『慰安婦』とは言えない」(45ページ)とまで主張するところにある。  では植民地出身の(というより朝鮮人の)「慰安婦」と占領地出身の「慰安婦」の違いとは何か? 『帝国の慰安婦』によれば、その違いは「そこで朝鮮人は『日本人』でもあった」(57ページ)こと、他民族の「慰安婦」とは異なり「〈故郷〉の役割」(45ページ)や「女房」(71ページ)としての役割、「精神的『慰安』者としての役割」(77ページ)、「〈代替日本人〉」の役割を期待されまた果たすことができ、日本人兵士との間に「『同じ日本人』としての〈同志的関係〉」(83ページ)を持っていたことだ、とされている。  朴裕河氏のこのような主張を支えているのが「〈自発の自己強制〉」(60ページ)、強制的な協力(144ページ)、といった概念である。すなわち、「構造的に誰かが国家による国民動員の〈協力者〉になるほかなかった状況こそが、〈植民地という事態〉だった」(49-50ページ)のであり、それゆえに植民地出身の「慰安婦」と占領地出身の「慰安婦」とは峻別されねばならない、というのである。 2. 「植民地/占領地」図式の観念性  このような図式の問題点の一つは、それがあまりにも観念的であるという点にある。『帝国の慰安婦』を一読すれば明らかなことだが、「慰安婦」たちの体験の「多様性」を強調する同書は同じ「植民地」である台湾の元「慰安婦」の「声」にも、また占領地の「慰安婦」として朝鮮人「慰安婦」と対照をなすはずの中国・フィリピン・インドネシア等の被害者たちの「声」にも、ほとんど関心を払っていない。普通に考えれば、『帝国の慰安婦』の中心的なテーゼの妥当性を確証するには、他地域出身の「慰安婦」の体験との比較対照が不可欠なはずである。植民地/占領地の峻別に基づく同書の主張は、朝鮮半島よりも日本の植民地としての歴史が長い台湾人「慰安婦」については少なくとも朝鮮人「慰安婦」と同等程度に妥当しなければならないはずである。また、著者が主張するような植民地出身の「慰安婦」の特異性が実際に認められるのかどうかは、占領地から動員された「慰安婦」の体験との違いに基づいて判断されねばならないはずである。しかし同書では植民地の「慰安婦」と占領地の「慰安婦」との違いはいわば自明の前提とされており、著者が朝鮮人元「慰安婦」の証言集や日本人作家の著作から拾い上げた「声」は直ちに朝鮮人慰安婦の経験の特異性を示すものとされてしまっている。  その結果として、「慰安婦」の体験の多様性を強調しているはずの同書は占領地の「慰安婦」たちの体験については非常に単純化されたイメージを提示することになってしまっている。そもそも“協力を強制される”のは植民地に固有のことではなく、占領地においても生じることである。「満洲」国や汪兆銘政権のような日本軍の傀儡政権下で暮らしていた人々は、なるほど朝鮮人や台湾人のように「日本人」とされることこそなかったものの、日本の同盟国の住民にはされていたのであり、「皇民化教育」に対応するものとして「五族共和」や「大東亜共栄圏」といったプロパガンダによる精神的な動員の対象にもされていたのである。果たして著者や『帝国の慰安婦』の賞賛者たちは「漢奸」という言葉を聞いたことがないのだろうか? 日本軍の燼滅掃討作戦(三光作戦)の対象となった華北地域の元「慰安婦」被害者ですら、戦後に「対日協力者」扱いされることがあったのは、支援者や研究者にとってはよく知られた話である。  もちろん、植民地と占領地の共通点を踏まえてもなお両者の間には“強制された自発性”の様態や程度に違いはあると主張することは可能であろうが、そうした主張の根拠を示すための作業は同書においては一切なされていない。それでいて「娘子軍〔=朝鮮人「慰安婦」〕、従軍慰安婦こそがもっとも悲惨な体験をしたことは忘れられるべきではない」(141ページ)などと断じるのは、他地域の「慰安婦」被害者に対する侮辱ではないのだろうか?  植民地/占領地という図式の(悪い意味での)観念性は、「ホロコーストには朝鮮人慰安婦が持つ矛盾−−すなわち被害者で協力者という二重の構造は、すくなくとも一般的にはない」(156ページ)という、かなり乱暴な主張にも反映している。書評において朴裕河氏を「一部のユダヤ人によるナチス協力にさえ言及したハンナ・アーレント」になぞらえた政治学者は、その朴氏本人がユダヤ人評議会の対独協力(あるいは「ゾンダーコマンド」の存在)など念頭に置いていないらしいことを、どう考えているのだろうか? 3. 「植民地の慰安婦」概念そのものの混乱  さらに、『帝国の慰安婦』における「植民地の慰安婦」概念には次に述べるような混乱がみうけられ、著者が朝鮮半島出身の「慰安婦」という存在について整合的な理解を持っているのかどうかすら疑われる。
 例えば著者は朝鮮人「慰安婦」の特徴として「日本語の理解度が高」かったことを挙げている(138ページ)。しかし「挺身隊」と「慰安婦」との違いを述べる際には、「挺身隊に動員された若い人は学校教育システムの中にいた者たち」(54ページ)だったのに対して「現実に現れている『慰安婦』の多くが、貧困による無学者か、低レベルの教育しか受けなかった人たちである」(53-54ページ)とされているのである(149ページも参照)。1943年末の段階で日本語能力が「悄々〔=少々〕解しうる」レベルだった朝鮮人が9.9%、「普通会話に差支なき」レベルであった朝鮮人が12.3%であった(趙景達、『植民地朝鮮と日本』、岩波新書、189ページ)ことを考えるなら、「多くが、貧困による無学者か、低レベルの教育しか受けなかった」朝鮮人「慰安婦」たち一般にそのような言語的アドバンテージがどの程度あったのか、はなはだ疑問と言わねばならない。  さらに、著者は「朝鮮人慰安婦」という存在を生み出した原因について「朝鮮が植民地化したということこそがもっとも大きな原因」(138ページ)だと言う一方で、「朝鮮人女性が多かったのは確かでも、そのことが宗主国日本が意識して植民地の女性をターゲットにして動員した、ということになるのではない」(137ページ)、「つまり、植民地だったことが、最初から朝鮮人女性が慰安婦の中に多かった理由だったのではない」(同所)、とも主張している。「内地という〈中心〉を支える日本のローカル地域になり、改善されることのなかった貧困こそが、戦争遂行のための安い労働力を提供する構造を作ったのである」(138ページ)、とも。さらに「家父長制と国家主義と植民地主義」が「朝鮮人慰安婦」を生み出したとしている箇所もある(34ページ、また38、66ページも参照)。植民地主義、構造的貧困、家父長制、国家主義……いずれも日本軍「慰安婦」の存在を考えるうえで重要な論点であるのは確かだが、構造的貧困や家父長制などは植民地朝鮮に固有の問題ではない。これだけ論旨が混乱していると果たして「朝鮮人慰安婦」にどれほどの固有性があると言えるのか、読者としては困惑するしかあるまい。 4. 「帝国」概念の混乱  「植民地」と対をなす「帝国」の概念もまた首尾一貫して用いられているとは言い難い。例えば次の一節をご覧いただきたい。
 「慰安婦」という存在は帝国主義(近代化)とともに組織化されたが、帝国崩壊後にもアジアで「慰安婦」システムが続いたのはすぐに本格化した冷戦体制のためだった。一九六五年の日韓協定が個人の被害が十分に考慮されないまま結ばれたのも、冷戦体制下にいたためだったことを考えると、近現代の慰安婦たちは帝国主義に動員され、冷戦維持に利用され、しかも冷戦のために補償してもらえなかったことになる。そしてアメリカの軍基地体制を新帝国体制と呼べるなら、いまなお世界の覇権を目指す帝国に女たちは利用されていると言わねばならない。(295ページ)
これは在韓米軍基地周辺、いわゆる「基地村」の売買春問題について述べた部分の一節である。植民地の「慰安婦」と占領地の「慰安婦」の区別にあれほどこだわった著者は、ここでは1937年以降本格的に制度化された日本軍「慰安所」制度を「近代化」とともに組織化されたものとし、日本敗戦後の韓国「基地村慰安婦」にも連なるものとしている。このような意味で「帝国」を用いるなら、植民地と占領地を峻別することに一体どのような意味があったのだろうか? 同じく、韓国「基地村」問題について、著者は次のようにも述べている。
 日本軍慰安婦問題が注目されたのは、彼女たちの体験を深刻な人権蹂躙と考えるほかないような過酷なものだったからである。しかし、米軍のために用意された女性たちの生活も、米軍の相手をするようになるまでの過程や、その後の生活を見る限り、日本軍慰安婦の状況と根本的には違いがない。彼女たちもまた、同じような悲惨な生活をしたのであり、そのような苦痛が、モノとしてあつかわれるような環境と、過酷な性労働ゆえのものだったのは言うまでもない。そして彼女たちがそのような境遇に陥ったのは、そこに国家が作った軍隊があったからである。(290ページ)
これが「朝鮮人慰安婦」は当時においては「日本人」であったことを強調し、「中国人女性たちは(中略)厳密な意味では『慰安婦』とは言えない」(45ページ)と主張した著者の筆から出た文言であると信じることができるだろうか?

2015年4月7日火曜日

千田夏光氏の「時代的拘束」について

 『帝国の慰安婦』は「いわゆる『慰安婦問題』の発生後の研究や発言が、『日本軍』をめぐる過去の解釈にとどまらず、発話者自身が拠って立つ現実政治の姿勢表明になった」とし、1973年に『〝声なき女〟八万人の告発−−従軍慰安婦』(双葉社)を刊行した千田夏光氏については「そのような時代的な拘束から自由だった」であろうとしている(いずれも26ページ)。73年に書かれた本が91年以降の「時代的な拘束」をまぬがれているのは当然であり、またそれゆえに一定の意義を持つであろうことは確かだろうが、逆に千田氏は千田氏で彼自身が属した時代に「拘束」されてもいたはずである。

 例えば双葉社版97-98ページ、講談社文庫版122ページには元関東軍参謀原善四郎氏と千田氏との対話の形で次のようなやりとりが記されている。
(前略) 「すると、朝鮮人女性は兵隊の精神鎮痛剤もしくは安定剤だったのですね。日本人の女性を集めることは考えなかったのですか。考えなかったとすれば、朝鮮人女性の方が集めるに罪悪感もしくは、抵抗感を覚えなくて済むからだったのですね」 「北満の駐屯地には大連(現旅大市)とか奉天(審陽)の花柳街から鞍替えして来た日本人女性もいました」 「でもそれはいわゆる慰安婦でない、つまり普通の商売女だったのではないですか」 「そうかも知れません」
「花柳街から鞍替えして来た日本人女性」について「慰安婦でない、つまり普通の商売女」だとしているのが千田氏の方である。『帝国の慰安婦』でも批判されている認識、すなわち女性を「商売女」とそれ以外とに分け、「慰安婦」制度の問題点を“無垢な女性”に性的サービスを強要した点に見いだす発想を千田氏が(そしてまた原氏も)持っていたことがわかる。

 また「閑な部隊では慰安婦は軍人にとって『部隊の一員』であり、『女房みたい』に扱われていたと言う」(71ページ)という記述の根拠として『帝国の慰安婦』の70-71ページで引用されている元陸軍将校の証言(双葉版65-67ページ、文庫版84-86ページ)のうち朴裕河氏が引用していない部分には、軍医の検診を受けている「慰安婦」の様子を「高倍率の双眼鏡」で覗いていたという“思い出話”も含まれている(「楽しみといってはなんですが、検診もまた兵隊は楽しんでいました」「股をひろげているのが手に届くように見えるのです」「彼女らの検診まで、無聊をかこつ兵隊にとっては憂さを晴らす材料になっていたのでした」)。時として元軍人たちの人権意識に批判的なコメントもしている千田氏は、このエピソードについては「ここでわかるのは、兵隊たちは腰をすえる警備段階になると、彼女らを性欲の処理対象としてだけで見なくなっていたようであることだ。それにしてもユーモラスなのはこんな話であった」とコメントしている(双葉版67ページ、文庫版86ページ)。1924年生まれの故人が、検診の場面すら性的に消費される女性たちの立場を想像できていないことをあげつらっても詮無いことだ、とは言えるかもしれない。しかし性暴力についてのこのような「時代的な拘束」を被っている男たちの口から語られる「女房みたい」「部隊の一員」を現代の私たちが評価するにあたっては細心の注意を要するはずである。

 千田氏の「時代的拘束」のもう一つの例としては、日本軍が占領地から動員した「慰安婦」の徴集方法に関する認識がある(双葉版187-190ページ、文庫版227-230ページ)。「中国人、マレー人、タイ人、ビルマ人、インド人女性」ら「現地人女性」は「自由売春」「単純に金銭欲からくる意思による売春であるとしていい」とされ、「現地軍による現地人女性の強制慰安婦化はなかったのである」としてしまっているのである。むしろ占領地でこそ起こっていた直接的暴力による拉致・監禁を突き止められなかったことはやむを得ないことであったかもしれない。問題はむしろ、「現地人女性」の置かれていた立場を「敗戦後の日本女性と進駐軍とのあり方や関係とくらべて見た方がいい」という視点を持っていながらなお、「はっきり言えば自由意志による単純売春希望者の募集」であったと千田氏が考えている点にある。「彼女らにそうしなければならぬ状況をつくらせたものへの追究はここでもおくとして」(原文の傍点を下線に変更)とか「被占領地になるという状況が、こうした女性を生み出していくことも事実」だと断っている千田氏がなぜここまではっきりと「自由意志による単純売春」だと言ってしまえるのか不思議でならないが、「時代的拘束」のなせるわざということなのだろうか。

2015年4月2日木曜日

「挺身隊」を知らなかった千田夏光氏

 以前に千田夏光氏の『従軍慰安婦』を読んだのはずいぶん前のことなので、今回読み直して色々と発見があったのだが、その一つに千田氏が「挺身隊という言葉のあること」を取材を通じて「初めて知りました」と述べていることがある(講談社文庫版、148ページ)。1924年生まれで敗戦時には成人しており、戦後は新聞記者として働き、写真集『日本の戦歴』の編集にも関わった千田氏が「挺身隊」という語の存在すら知らなかった、というのである。
 
 しかし考えてみれば、戦時動員をどういう名目で、どういう法的根拠で行うかといったことは動員する側の関心事ではあっても、動員される側にしてみればそうとは限らない。むしろ「動員されること」それ自体がまずは重大なのであって、その名目やら法的根拠は二の次、三の次だというのが普通だろう。

 右派は「挺身隊」と「慰安婦」の混同についてあれこれと邪推して見せるわけだが、動員された側に取材したジャーナリストが「(女子勤労)挺身隊」が正確にはなんであるのかについてさほど関心を持たなかったとしても、特に不思議はないのではないだろうか。

2015年4月1日水曜日

かつて自分が援用した資料を否定する秦郁彦氏

 秦郁彦氏が日本軍「慰安婦」の総数についての推定を下方修正し続けてきた歴史についてはすでに多くの方が指摘している。だが3月17日に日本外国特派員協会で行った会見で、秦氏は他にも過去の自分の著作を否定するかのような発言をしている。マグロウ・ヒル社の歴史教科書に、「慰安婦」が「天皇からの贈り物である」という記述があることについて、秦氏は「国家元首に対する、あまりにも非常識な表現だろうと思います」と述べた。だが1999年の著作『慰安婦と戦場の性』は『元下級兵士が体験見聞した従軍慰安婦』(曾根一夫、白石書店、1993年)を援用し、「慰安所」に行こうとする兵士たちに上官が「大元帥陛下におかせられましては、戦地に在る将兵をおいたわりくだされて、慰安するための女性をつかわしくだされ……」と訓示した例があることを紹介している(74ページ)。秦氏はこの事例について「隊長たちは、部下兵士たちに慰安所を使わせる名分に苦労したらしい」と考察しているが、国家の一部門たる軍隊が買春施設を設けることをどう理解するかという問題に対して、まさしく「天皇からの贈り物」という「名分」を用いた将校がいたわけである。
 さらに太平洋戦争期になり「慰安婦」を船舶輸送する必要が生じた際、陸軍では42年4月頃から人事局恩賞課がその調整の窓口となったとしている(104ページ)。さすがに恩賞課の担当事項のうち「恩給、賜金」としてではなく「軍人援護、職業補導其ノ他厚生ニ関スル事項」のうちの「其ノ他厚生」としてであったが、官僚機構としての軍における「慰安婦」の位置付けが「天皇からの贈り物」に類するものとされていたことをこれは物語っているのではないだろうか?


追記:陸軍省軍事課に長く勤務した軍官僚、西浦進の回想『昭和戦争史の証言 日本陸軍終焉の真実』(日経ビジネス人文庫)を読んでいたら「慰安所」に関わる記述があったので紹介する。なお同書は、1947年にまとめられ小部数がタイプ印刷されたものが西浦の死後原書房から刊行され、2013年に改題のうえ文庫化されたものである。「慰安所」に関する記述は「所管争い」という小見出しがつけられた一節に含まれている(文庫版、143ページ)。わずか数行なので全文を引用する。原文のルビを( )内に移した。
 もう一つ、支那事変の初め、慰安所が初めて設けられることになった。中央における担任課はどこかということで一議論あった。軍紀風紀という点からいえば兵務課、衛生という点からは衛生課、恤兵(じゅつぺい)なれば恤兵部、何れにも属せざる事項とすれば官房、というので大分議論があったが、結局、恤兵部あたりで内地の仕事はすることになった。
なお『慰安婦と戦場の性』で人事局恩賞課が担当したとされているのは船舶輸送の調整であるから、「内地の仕事」の所管に関する上記の西浦の回想との間に齟齬があるわけではない。

2015年3月28日土曜日

『帝国の慰安婦』の驚くべきアナクロニズムについて/『帝国の慰安婦』私的コメント(3)

 『帝国の慰安婦』は41ページで森崎和江の『からゆきさん』(朝日新聞社、1976年)から次のような引用を行っている。傍点を下線に改めた。
 女たちは野戦郵便局から日々ふるさとへ送金した。送られる金は、はじめのうちは一人一日百円以下は少なくて、四、五百円のものもいるというぐあいだったが、やがて国内の娼妓と同じ苦境におちいった。女たちの数がますますふえていったためである。これらの店にあがることもできない兵士や労働者たちを客とする私娼窟もふえた。(森崎、一五五頁)
 この引用の第一の問題点は、引用文中にある傍点(ここでは下線)が森崎の原文には存在しない、ということである。傍点が引用者によるものだという断り書きもない。『帝国の慰安婦』には千田夏光の著作からの引用に際しても無断で傍点を付した箇所が複数ある。いずれも、研究者にあるまじきルール違反である(注1)(注2)。
 しかし問題点はそれだけではない。著者は上記の引用に続けてこう主張している。「おそらく、軍慰安所の第一の目的、あるいは意識されずとも機能してしまった部分は、高嶺の花だった買春を兵士の手にも届くものにすることだった」、と(41ページ)。当然、読者は『からゆきさん』からの上記引用が日中戦争の全面化に近い時期のものであると考えるだろう。
 ところが、出典にあたれば『からゆきさん』の上記の記述は1905年(明治38年)、日露戦争中の大連における売買春施設に関するものであることがわかる。1937年9月以降に本格的に制度化された日本軍「慰安所」制度の「目的」なり「機能」を1905年・大連での日本軍兵士の買春事情から推測するのがナンセンスであることは歴史学の素人にとっても明白であろう。しかし『帝国の慰安婦』は「いつ・どこで」がわからないようなかたちで『からゆきさん』からの引用を行うことにより、この驚くべきアナクロニズム(時代錯誤)を隠蔽してしまっているのである。
 『帝国の慰安婦』には他にも、およそ合理的な根拠なしに「慰安所」設置の目的に関して通説を否定している箇所が存在する。それについてはまた別稿で指摘することにしたい。
注1:さらに細かいことを言うなら、引用されている段落は「女たちは……」で始まるわけではなく、その前に1センテンスが存在する。その1センテンスが省略されていることも断られていない。しかし、本書に関してこの程度の問題を指摘していたらきりがないので、以後いちいち指摘しないかもしれないことをあらかじめお断りしておく。
注2:打ち消し線部分は筆者の誤認であったので、訂正するとともに朴裕河氏に謝罪したい。詳しくは改めて付記するが、取り急ぎ訂正と謝罪まで。ただし、注1の指摘については有効である。

2015年3月25日水曜日

「朝日新聞を糾す国民会議」の訴状を読む

 現在日本軍「慰安婦」問題に関連して『朝日新聞』に対して起こされている集団訴訟のうち、もっとも多数の原告を集めているのが「朝日新聞を糾す国民会議」によるものである。私は3つの訴訟の訴状を読み比べたのだが、その内容、というよりその文体において「朝日新聞を糾す国民会議」のそれは突出して異様だ。
 訴状の「加害行為」の項には次のような一節がある。
 朝日新聞は、戦後、一貫して、社会主義幻想に取りつかれ、反日自虐のイデオロギーに骨絡みとなり、日本の新聞であるにもかかわらず、祖国を呪詛し、明治維新以来の日本近代史において、日本の独立と近代化のために涙ぐましい努力をしてきた先人を辱めることに躊躇することはない。旧軍の将兵を辱めるときは、ことさらそうである。実際のところ、明治の建軍以来、日本の軍隊は、国際法を遵守し、世界で最も軍律が厳しく道義が高かったにもかかわらずである。客観報道・事実の報道をするわけではなく、国論の分かれる問題については、「報道」ではなく「キャンペーン」を張るのが常であった。朝日新聞は、これまで、クオリティーペーパー(高級紙)、社会の木鐸などというもおこがましく、国家・国民を誤導してきたものである。
これではまるでアジビラである。裁判官がどんな顔をしてこの訴状を読むのか、見てみたいものだ。訴状は続いて訴えの原因となる13本の記事の掲載日と見出しを列挙し、こう述べている(下線は引用者)。
 先ずは、朝日新聞的思い入れたっぷりの表現で綴られた本件一連の虚報を通読されたい。赤面するか憤るか、驚倒すべきことに、有り体にいうと、これが 全部嘘なのである。
右翼的「思い入れたっぷりの表現」でこんなことを書いているので、おもわず笑ってしまった。
 「朝日新聞虚偽報道が招来した恐るべき事態」という項の最後はこう結ばれている。
 最後に、断言したい。「朝日新聞の本件一連の虚報なかりせば、今日の事態は 絶対にあり得なかった」と。
もちろん『朝日新聞』に限らずマスメディアの初期報道にはいまから見れば事実に即していないものがあったのも確かだが、他方でもし1991年の時点で、今日までに判明している史実をすべて正しく報道できていたとしたら、国際社会の日本軍「慰安婦」問題に対する評価は似たり寄ったりだったであろうことは疑いの余地がない。

2015年3月9日月曜日

『帝国の慰安婦』における「平均年齢25歳」の誤り/『帝国の慰安婦』私的コメント(2)

 『帝国の慰安婦』が「〈慰安婦=少女〉のイメージ」(64ページ)を批判するために援用している資料の一つが、有名な「日本人捕虜尋問報告 第49号」である(153ページにも資料名は記されていないが、おそらくはこの尋問報告が念頭におかれている記述がある)。もっとも、『帝国の慰安婦』巻末の参考文献には、この尋問報告も収録された『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』が挙げられているにもかかわらず、「平均年齢は二五歳」という一句が船橋洋一の『歴史和解の旅』(朝日選書)から孫引きされている。ここで朴裕河が尋問時の年齢と「慰安婦」にされた/なった時の年齢とを区別せずに論述していることについては、すでに yasugoro_2012 さんが指摘されている。しかしこれ以外にも、この資料の扱い方の問題点はいくつかある。
 まず厳密に言えば尋問報告書には「平均年齢は二五歳」ではなく「平均的な朝鮮人慰安婦は二五歳くらい」(下線は引用者)とされていること。報告書の付録に記されている20名の年齢の平均を実際に計算してみると 23.2 歳となる。さらに、「平均的な朝鮮人慰安婦」の姿を知りたいからといって算術平均をとればよいというものではない。年齢の分布に偏りがある場合、平均は必ずしもよい指標にはならない。20名の年齢の最頻値と中央値はいずれも21歳である。女性たちが集められたのが尋問の2年前だということを計算に入れれば、19歳ということになる。

 もちろん「日本人捕虜尋問報告 第49号」だけで朝鮮人「慰安婦」の全体像を捉えることはできないが、少なくともこの資料を根拠とするならば典型的な朝鮮人「慰安婦」は未成年のうちに徴集されたと判断しなければならない。この資料は『帝国の慰安婦』のテーゼを裏付けるものではなく、むしろ否定するものと言わねばならないだろう。

追記:この記事に関連してある読者の方より以下のようなご指摘をいただいたので、ご紹介させていただく。

 『帝国の慰安婦』は「証言している慰安婦たちのほとんどが一〇代に『慰安婦』になったとしているのは、この『慰安婦問題』が発生した九〇年代には、すでに一九四〇年代から五〇年も経っていたためではないだろうか。つまり一九四五年の時点で二五歳以上の人たちは、この時すでに七〇歳以上になっていたわけで、当時の平均寿命からすると既に亡くなっていたか、病気になっていた可能性が高い」としている(67-68ページ)。しかしこちらのデータによれば1991年当時の韓国における女性の「平均寿命」は約76歳である。1945年の時点で25歳の人は1991年の時点では71歳である。とすると、「慰安婦」にされた/なった時点ですでに20歳を越えていた人々が1991年の時点ですでに亡くなっていた割合が、未成年で「慰安婦」にされた人々に比べればある程度高いであろうことは推認できるものの、「証言している慰安婦たちのほとんどが一〇代に『慰安婦』になったとしている」(下線は引用者)ことを「平均寿命」だけで説明できるわけでもないだろう。「慰安所」での過酷な生活が「平均寿命」に影響したことも当然考えられるが、その影響は低年齢で「慰安婦」にさせられた人ほどより大きかったであろうと一般には推測できるであろう。いずれにせよ、「平均寿命」だけを根拠にした主張の説得力は割り引いて評価されねばならないはずである。

2015年3月5日木曜日

1991年のある投書

 1991年の7月30日、すなわち植村隆氏による金学順さんに関する最初の記事が掲載されるわずか10日前ほどの『朝日新聞』(大阪本社)朝刊の「女たちの太平洋戦争」欄に、次のような投書が掲載されていた。投書の主の氏名は伏せるが当時74歳の在日コリアン男性である。
 本欄によれば「大阪M遊郭から来た慰安婦もいたから、金に買われた女性も多い」とあったが、彼女らは軍人の慰安婦になるため身を売ったのではない。年配の方なら彼女たちの境遇は理解出来ると思う。ちなみに朝鮮人の娘たちは強制連行である。    どちらにしても、この女性たちは日本軍のなぶりものにされ、慰安婦という不浄なレッテルを張られたまま使い捨てにされ、その後の詳しい消息は今も不明のようである。かろうじて生き延びた女性が今は老女となり、日本国に何人かいると聞くが、この老女たちは過去の忌まわしい出来事を語ろうとはしない。   (中略)
  時には日本人から「侵略も悪いが、侵略された国にも責任がある」と言われることがある。なるほどと思う。   たとえ朝鮮民族が討ち死にして滅亡しても、日本の侵略に立ち向かって国家を守るべきだった。  (後略)
下線は引用者。
 この投書が興味を引く理由はいくつかある。一つは、こんにち日本の右派の一部(その代表格は中山成彬元衆院議員)が日本軍「慰安婦」問題に関して主張すること、すなわち「もし本当に多数の朝鮮人女性が強制連行されていたというのなら、なぜ朝鮮人(男性)は抵抗しなかったのか?」と似たようなことを在日コリアンに向かって言う日本人が当時もいたのだな、ということがうかがえる、という点。この論理は、「後になって『勝者の裁き』だの『押しつけ憲法』などと文句を言うのであれば、本土決戦で一億玉砕しておけばよかったのに」という具合に右派に跳ね返ってくるのであるが。
 しかし私がこの投書をとりあげた一番の理由は、当時74歳だった−−ということは1910年代生まれの−−男性が、この10日ほど後に掲載される記事に加えられる非難にあらかじめ反論していた、という点にある。「彼女らは軍人の慰安婦になるため身を売ったのではない」。これさえわかっていれば、金学順さんが「キーセン学校」に通っていた経歴などまったく記事にするに値しないことが了解できるだろう。
 なおこの男性が「朝鮮人の娘たちは強制連行」されたと書いているからといって、吉田清次“証言”にみられるような連行形態を思い浮かべていたとは限らない、ということにも注意が必要である。90年、91年当時の朝鮮人強制連行に関する『朝日新聞』の記事では、強制連行が「募集」「官あっせん」「徴用」とさまざまな方法で行われたことが記されていることが度々あり、かつ「村人から何人出せ」と地域共同体に圧力をかける方式や、出稼ぎで来日し土木現場を転々としているところへ「役場(市役所)から呼び出しがあった」というケース、さらには「おれたちも白い米を食おう」と言い残して日本に渡ったケースなどまで含めて「強制連行」の被害者として扱っている。
 また、「挺身隊」についても同様で、「パラオ挺身隊」として戦闘に参加した人々が集められた経緯を「挺身隊は43年ごろ、日本軍が公募。志願した29人がパプアニューギニアへ行き」としている例がある。この当時の『朝日新聞』読者なら、「(強制)連行」「挺身隊」という単語から直ちに吉田清次的な“人狩り”を想起するわけではない、ということがうかがえるだろう。

2015年2月22日日曜日

「和服・日本髪の朝鮮人慰安婦の写真」とは?/『帝国の慰安婦』私的コメント(1)

 『帝国の慰安婦』(朴裕河、朝日新聞出版、2014年)については「慰安婦」問題をめぐる報道を再検証する会のブログでも情報発信をしてゆく予定になっているが、こちらのブログではあくまで私個人の責任においていくつかコメントしていきたい。
 まず最初にとりあげたいのは、『帝国の慰安婦』の24ページで言及されているある写真について、である。著者はその写真について、次のように言っている。

「占領直後とおぼしい風景の中に和服姿で乗り込む女性。中国人から蔑みの目で見られている日本髪の女性」。おそらくこの言葉が、あの十五年戦争における「朝鮮人慰安婦」を象徴的に語っていよう。なぜ朝鮮人慰安婦が、「日本髪」の「和服姿」で日本軍の「占領直後」の中国にいたのか。そしてなぜ「中国人から蔑みの目で見られてい」たのかも、そこから見えてくるはずだ。
 これまでの慰安婦をめぐる研究や言及は、このことにほとんど注目してこなかった。しかし、この点について考えない限り、朝鮮人慰安婦をめぐる記憶の闘いは永遠に続くだろう。(……)
では「このこと」に注目するとどのように「記憶の闘い」を終わらせることができるのか。その点についての著者の考えは本書を読了しても私にはまったくわからなかったのだが、それはまた別の機会に譲ろう。いまは本書の出発点とも言える、少なくとも著者自身によって「象徴」として重視されているこの写真についてのみ述べることにしよう。

 さて、上記引用を読んだ方は、「和服を着て日本髪を結った朝鮮人慰安婦が、占領されたばかりの中国の街に乗り込む」場面を思い浮かべられたはずである。実はこの一節は、千田夏光氏の『従軍慰安婦』(講談社文庫、1984年。著者が参照しているのは1973年に双葉社から刊行された『“声なき女”八万人の告発 従軍慰安婦』)のうち、千田氏が毎日新聞社刊の写真集『日本の戦歴』の編集作業に携わっているときのことを記した部分に依拠している。千田氏の記述は次のようなものである。
 ところがその作業の中に数十枚の不思議な女性の写真を発見したのである。兵隊とともに行軍する朝鮮人らしい女性。頭の上にトランクをのせている姿は朝鮮女性がよくやるポーズである。占領直後とおぼしい風景の中に和服姿で乗り込む女性。中国人から蔑みの目で見られている日本髪の女性。写真ネガにつけられている説明に“慰安婦”の文字はなかった。が、この女性の正体を追っているうち初めて“慰安婦”なる存在を知ったのであった。
講談社文庫版では259ページ。下線部は朴裕河氏が引用に際して傍点を振った部分である。

 さて、お気づきになられたであろうか? この千田氏の記述を読んだ後で改めて朴氏の記述を読めば、彼女が「日本髪、和服姿の朝鮮人女性が頭の上にトランクをのせ、兵隊とともに占領直後の中国の街を行進し、中国人から蔑みの目で見られている」写真を描写していることがわかるはずである。だが、千田氏が見たのは本当にそんな写真だったのだろうか?

 まずは写真1(ここをクリック)をご覧いただきたい。「兵隊とともに行軍する」女性(写真だけではわからないが、67年版の『日本の戦歴』のキャプションでは「前進する部隊を追って黄河をわたる慰安婦たち」とされている)、「頭の上にトランクをのせている」女性が写っている。次に写真2(ここをクリック)をご覧いただきたい。和服姿、日本髪の女性が中国と思しき街を歩き、中国人と思しき男性に視線を送られている。第1の写真の女性たちは和服姿、日本髪ではなく、第2の写真の女性たちは兵隊とともに行軍しておらず、頭にトランクをのせてもいない。ここで改めて千田氏の記述を読み直していただければ、これが2枚の写真についてのものであることがお判りいただけよう。朴氏はどうやらこの2枚の写真についての記述を1枚の写真のものだと思い込んでいるようなのだ。確かに、和服姿に日本髪であれば履き物も(2枚目の女性たちのように)草履になるのが自然で、草履履きで(1枚目の女性たちのように)兵士たちとともに「行軍」できるとはちょっと思えない。

 だとすると、2枚目の写真の和服姿、日本髪の女性たちが「朝鮮人」慰安婦だと考える根拠はないことになる。私の手元には1967年版の『日本の戦歴』があるが、写真に付されたキャプションによれば2枚目の写真の女性たちは「内地」からやってきたとされている。

 次の2つの事情がなければ、私もこの程度のミスをあげつらおうとは思わなかっただろう。1つは、この「写真」が「あの十五年戦争における『朝鮮人慰安婦』を象徴的に語って」いるものとして、著者自身によって重視されているということ。本書の主張の根拠として重要であるとは言えないにしても、本書の着想にとっては重要なものだったはずだから、である。それだけ重視されている「写真」が実在しないとしたら?

 もう1つの事情とは、本書の参考文献には毎日新聞社刊の『日本の来歴』が1965年版(『毎日グラフ』別冊)、67年版の双方とも記載されていることである。それだけでなく、本書の75ページでは、千田氏から「彼女らが部隊を追い行動するときは洋装が普通だった」「洋装といっても木綿のワンピースかスーツだったという」「これに晴れ着や身のまわりの品をつめたトランクを持ち兵隊と一緒に歩いていた」「渡江の際は褌ひとつになる兵隊の横で裾を腰までからげていたという」といった記述を引用したうえで、「実際に千田が言及した写真集には、千田の語る光景をそのまま移したような写真も収められている」とされているのである。「千田の語る光景をそのまま移したような写真」が前出1枚目の写真であることに疑いはない。朴氏はこの写真を見たうえで、なおもう1枚の写真との混同に気づいていないのである。このようなずさんさは決してこの箇所にとどまるわけではない。それが、あえてこの写真の混同についてとりあげるもう1つの理由である。

 以下は余談である。1965年版の『日本の戦歴』で1枚目の女性たちの写真に付されたキャプションでは、「慰安婦」一般の説明として「朝鮮婦人が多かった」とされていたようであるが、写真の女性たちが朝鮮人であったとはされていなかったようである。67年版の『日本の戦歴』のキャプションにはそもそも「朝鮮」の2文字はない。
 実は1枚目の(左側にトランクを頭にのせた女性が写っている)写真は、日本の右派が「慰安婦」問題について主張していることをフォローしている人間にはおなじみのものである。彼らは女性の笑顔が印象的なこの写真を、「朝鮮人慰安婦の待遇がよかった」ことの証拠としてしばしば持ち出すからである。しかし千田氏は「朝鮮人らしい」と述べているだけである。しかもその推定の根拠は「頭の上にトランクをのせている姿は朝鮮女性がよくやるポーズ」だということに過ぎない。「頭の上にのせるポーズ」は朝鮮に限らず女性が重い荷物を運ぶような労働に従事する社会ではよく見られるものだし、さらに言えばこの女性たちは川を徒歩で渡っているところであるから、単に荷物が濡れないように頭にのせていただけかもしれない。キャプションによれば写真が撮影されたのは38年6月、日中戦争が全面化してからまだ1年たたない時期であることを考えれば、1枚目の女性が朝鮮人であるという推定もさほど蓋然性のあるものとは思えない。右派は、自分たちにとって気に入らない千田氏の錯誤については好んで指摘するが、あやふやな推定であっても自分たちにとって都合のよい場合にはそのあやふやさを看過するようである。

追記(2015年3月23日)
 1965年刊行の『毎日グラフ』別冊の方の『日本の戦歴』も入手することができたので、それぞれについて上記2枚の写真のキャプションを紹介したい。まず写真1の65年版キャプションは以下の通り。

次に同じ写真の67年版キャプションは以下の通り。いずれのキャプションでも、写真の女性たちについて直接「朝鮮人慰安婦」であるとする記述はない。

写真2の65年版キャプションは以下の通り。
67年版キャプションは以下の通りである。

また、二人の中国人男性の表情もご覧いただこう。「蔑みの目」と断定しうるようなものかどうか、ご確認いただきたい。

2015年2月21日土曜日

『週刊金曜日』2月6日号掲載拙稿への補足(2)

 『産経新聞』の連載「歴史戦」の第9部が2月15日の一面トップで始まったことで少し間が空いてしまいましたが、『週刊金曜日』の1026号(2月6日号)に掲載された拙稿への補足の続きです。今回は、植村隆氏へのバッシングのもう一つの焦点である、1991年12月25日付の記事について。こちらについても金学順さんが「キーセン学校」に通っていたことなどを書かなかったことが「捏造」だとされています。
 こちらの記事が執筆された時点では金学順さんを支援していたのが太平洋戦争犠牲者遺族会ですから、その点だけをとれば植村氏と義母との関係を根拠とした「捏造」主張は成立する余地があります。その代わり、この時点では金学順さんに関する情報が一部の支援者だけが知りうるものではなく、訴状や記者会見での発言を通じてオープンになっているという事情があります。では、他紙は金学順さんについてどう報じていたのでしょうか?


 

写真はいずれも1991年12月6日の『読売新聞』夕刊紙面より。太平洋戦争犠牲者遺族会による日本政府の提訴を伝える記事ですが、金学順さんについて書かれているのはこれだけです。「キーセン学校」のことも書かれていなければ「養父」のことも書かれていません。いずれも訴状には書かれていることです。なぜ『読売』のこの記事は「捏造」だと非難されないのでしょうか?
 多くの情報から限られた紙面にどれを掲載するかは、各記者や各紙のニュース価値に関する判断によって決まります。その判断において、『朝日』ないし植村氏が他紙と大きく違っていたという事実はないわけです。金学順さんが「慰安所」に到着して「しまった」と思ったのは「養父」とは別れた後のことです。金学順さんの訴えは、それ以降始まった日本軍「慰安所」での被害に関するものですから、「それ以前」の事柄に高いニュース価値を見出さなかったのは至極当然のことです。
 逆に「慰安所」到着以前の事情に日本の右派が執着していることは、性暴力被害に関する彼らのバイアスを反映しているのです。

2015年2月16日月曜日

ブックマークコメントの錯誤について

 それ自体としては大した話ではないのですが、現在進行形で歴史修正主義者が展開しているプロパガンダと関わることなので、一応コメントしておきます。今朝公開した「『見なかった』証言の詐術」という記事に対するはてなブックマークコメントについてです。
bahrelghazali そういえば、産経が「慰安婦を理由に、アメリカの日本人児童がいじめられている」という記事に対し、日本の左翼は「そんな話は知らない」という僅かな証言だけを根拠に、いじめは存在しないと断定したっけ。(http://b.hatena.ne.jp/entry/nogawam.blogspot.com/2015/02/blog-post_16.html)
 このコメントがはらむ誤りは2つあります。秦郁彦氏が言っているのは「見ていない」という証言をいくら集めても「確実な目撃者が二人現れたら」火事は起きたのだと判断して当然だ、ということです。しかし「慰安婦を理由に在米日本人の子供がいじめられている」に関しては「確実な目撃者」あるいは体験者はただの一人も現れていません。いるのは「いじめられたと言ってる人がいる」と言ってる人、だけです。秦氏は「火事が起きたらしいよ」と言っている人を「確実な目撃者」とはみなさないでしょう。当然のことながら。
 第二に、秦氏が目黒区で起きた火事や犯罪についての情報をまとめて報告される立場にないのと同じように、産経の記事に登場する第6師団の下士官は師団が関わった虐殺についての情報をまとめて報告されるような立場にはいなかった、という点です。目黒区の消防署が「火事の報告は受けていません」と述べたのであれば、それは普通の区民が「火事は見ていない」と述べるのとは全く違った意味を持ちます。そして右派メディアが言うところの「慰安婦を理由としたいじめ」なるものについては、学校、警察、日本の大使館など(もしそういう事実があるのなら)関連情報が集まってくるはずの機関に問い合わせた人が「そんな報告は受けていない」との返答を得ているのです。グレンデール市でたまたま出くわした市民に「こんな話、知りませんか?」と尋ねて「いや、知らないなぁ」という返事をもらったので「いじめはなかった」と結論付けた、なんて話しではありません。自分が直接に見聞したこと以外には非公式な伝聞等でしか知らない立場の人間と、多数の人間から寄せられる報告を公式に受け取る立場の人間とでは、その証言の扱い方は当然違ってきます。

 軍隊においては階級が上になるほど「全体」についてはよく知っているが現場の生の様子は知らないことがある、階級が下になるほどその逆の傾向になる……というのは軍人の証言を聞くときに念頭に置いておくべき基本的な事柄の一つです。